猪木振り返る半生 ブラジル移住では血まみれの手でコーヒー収穫

©株式会社光文社

5歳になる直前に父を心筋梗塞で亡くした猪木寛至は「何でも世界一になれ」が口癖の祖父・寿郎さん(左)を親代わりに育った。

「私には父の記憶がほとんどありません。母は父の石炭工場経営を引き継ぎ、女手ひとつで私ら家族を養った。よって私にとっての親代わりは、祖父だったんです」

アントニオ猪木さん(本名:猪木寛至・77)は43年2月20日、横浜市鶴見区で11人きょうだいの9番目の六男として生まれた。5歳になる直前に父が急死。母・文子さんと離れ、祖父・寿郎さんの家で幼少を過ごした。祖父の口癖《何でも世界一になれ、心の貧乏人にだけはなるな》を胸に、中学生で身長180cmを超えていた。

石炭需要の激減で家業が傾くと、一家はブラジル移民に一縷の夢を託すが、洋上で祖父は帰らぬ人に。ジャングルを抜け到着したコーヒー農園での労働環境は過酷だった。

「夜明けと同時に鐘の音で起こされ、ひたすらコーヒーの収穫作業でした。手袋は破れ、手の皮がむけて血が噴き出した。傷が癒える暇なく、毎日12時間労働させられました。電気もトイレもない生活は経験がなく、一家は打ちのめされた。母が毎晩泣いていました」

この雇用契約1年半を終えると、一家はその後、落花生栽培に成功。サンパウロの青果市場で働くうち、猪木さんは投擲競技で頭角を表す。全ブラジル陸上競技大会の円盤投げで優勝し、同国遠征中だった“日本プロレスの開祖”力道山(享年39)の目に留まりスカウトされるのだ。

「一家は賛成してくれていました、ひとり母を除いて。『せっかく一家で農業で成功したのに、なぜプロレスなんて危険なことを……』と」

力道山がプロ野球・読売ジャイアンツで活躍した故・馬場正平さん(当時22、後のジャイアント馬場)と猪木さん(当時17)を日本プロレスに入団させたのは60年4月。同年9月にデビューした2人は63年の力道山急逝後にエース格となった。

72年、猪木さんが新日本プロレス、馬場さんが全日本プロレスをそれぞれ旗揚げ、鎬を削ることに。

「しかしプロレスの強さを信じてくれる人が少なくなっていた時期で、プロレスが世間から蔑まれていることに苛立ちを感じていました。そんなとき、《最強の格闘技はボクシングだ》というボクシング王者の発言が耳に入ったんです」

そのボクサーとは人種差別反対や反戦運動で世界の注目を集めるモハメド・アリ(享年74)だった。海外では無名の猪木さんは挑戦状を送り、粘り強い交渉の結果、日本で開催する試合の調印書にアリはサイン。76年6月26日、東京・日本武道館で格闘技世界一決定戦・猪木×アリ戦が実現するのである。

「とにかくアリをリングに上げるのが大前提でした。試合せず帰られて困るのはこっちですし、勝つ自信もありましたから、圧倒的に不利なルールも『ぜんぶ飲めよ』とスタッフに指示したんです」

試合は15ラウンド闘い抜いて引き分けに終わったが、全世界に配信されたことで「イノキ」の名は世界に知れ渡ることとなった。その後、アリは猪木さんを結婚式に招待し、猪木さんも95年に北朝鮮で開催した「平和のための平壌国際体育・文化祝典」の立会人に招くなど、友情は続いた。

アリ戦後、猪木さんの新日本プロレスは“プロレス黄金期”と呼ばれる人気を獲得したが、同時期に個人事業の失敗で莫大な負債を抱えた。リング内外での過度のストレスとプレッシャーで当時、猪木さんは重度の糖尿病と診断されている。さらに、71年に結婚し、愛娘もいる妻・倍賞美津子さん(73)との離婚。

度重なるピンチを切り抜けると89年、参議院選挙に出馬し約99万4千票を獲得してレスラー初の国会議員となる。翌90年12月にはイラク・バグダッドで「平和の祭典」を開催。当時イラク軍のクウェート侵攻で、イラクは国際社会から経済制裁を受けており、在留邦人は事実上の人質にされていた。

アリ戦で世界的な知名度を得ていた猪木さんは、このときイラク政府と直接会談して交渉。結果、人質は解放され、社会的なニュースとなった。

「思えばアリ戦は、私の人生にとって、『この経験があったから今日がある』といえるものとなりました。『引き分け』という結果に当時は酷評ばかりでしたが、引き分けだったからこそ、その後の交流がつづいたのかもしれない」

波乱万丈な半生を振り返った猪木さん。77年の歩みの原動力はつねに「踏み出す勇気」であった。「『経験に勝るものなし』と言いますが、迷わず一歩を踏み出し、チャレンジしてこそ、はじめて得られるものがある。それが『闘って生きる』ということでしょう」

(取材・文:鈴木利宗)

「女性自身」2020年10月27日号 掲載