野茂や松坂を「すごいと思わなかった」 元ハム田中幸雄氏を築き上げた若手時代の経験

日本ハムで活躍した田中幸雄氏【写真:荒川祐史】

苦手だったサイド投手は鹿取義隆氏

1986年から日本ハム一筋22年、強打の遊撃手として通算2012安打を放ち“ミスター・ファイターズ”の異名を取った田中幸雄氏。現役時代、何度も目の前に立ちふさがったのは、森祗晶監督が率いた86年からの9年間にリーグ優勝8回、日本一6回を成し遂げるなど無敵の強さを誇った西武の投手陣だった。

「僕はもともと右のサイドスローが好きではなかった。特に西武の鹿取(義隆)さん。シュートとスライダーのコンビネーションに翻弄されました」と田中氏。鹿取氏は89年オフに巨人からトレードで西武入りし、1年目の90年にリーグ最多の24セーブをマークし最優秀救援投手のタイトルを獲得。その後も97年まで貴重なリリーバーとして活躍した。

さらに、鹿取氏と入れ替わるようにして、96年オフに横浜(現DeNA)からデニー氏(友利結氏=現・巨人編成本部海外スカウト担当)が加入。こちらも右サイドスローの中継ぎ投手。ただ、精密な制球力の持ち主だった鹿取氏とは対照的に、荒れ球が持ち味だった。

「デニーの場合は真っすぐがシュート回転していた。もともと、すごくコントロールが悪いイメージがあって、(打者の頭付近に)抜けてきそうな気がしていた」と振り返る。「それでも、バッターはボールを怖がったら絶対に打てないので、当たってもいい覚悟で踏み込む。踏み込んだところで内角に来ると、どうしても詰まってしまう。そこで内角を意識すると、今度は外角の曲がりの大きいスライダーが遠く感じてバットが届かない」という悪循環に陥った。

一方、当時の西武には、右のサイドスローのリリーバーがもう1人。90年から2004年まで、「魔球」と恐れられた落差の大きいシンカーで名を馳せた潮崎哲也氏(現・西武編成グループディレクター)がいた。そのシンカーは、1度浮き上がってから落ちる独特の球筋で、「誰にもまねできない」といわれたが、実は田中氏は苦にしていなかった。「決して嫌ではなかったです。カーブに似た軌道で、僕はカーブだと思って打っていました」と秘訣を明かした。

松坂大輔投手のでデビュー戦、田中幸雄氏は4番だった

西武といえば、やはり衝撃的だったのは、1999年4月7日の東京ドーム。西武・松坂大輔の1軍デビュー戦だった。初先発の松坂に、8回まで小笠原道大氏(現・日本ハムヘッド兼打撃コーチ)の2ランによる2点に抑えられ、初勝利を献上。初回、3番の片岡篤史氏が内角高めの155キロの速球を空振り三振したシーンが名場面として今も語り草になっている。

この試合に田中氏は4番で出場。「真っ直ぐは速いし、スライダーの切れもいい。びっくりしたけれど、こっちはプロで長くやっていた(当時14年目)から、三振だけはしたくないと必死でした」と言う。2回の第1打席は148キロの速球をジャストミートしたかに思えたが、左飛。4回の第2打席は三ゴロ。6回にピッチャー返しの中前打を放ったが、8回には内角低めの147キロに、とうとう空振り三振を喫した。その後、数多くの対戦で本塁打を放ったこともあったが、初対戦の衝撃を忘れることはなかった。

他にも、その後メジャーに打って出た近鉄・野茂英雄氏、ロッテ・伊良部秀輝氏をはじめ、パ・リーグの名だたる投手たちと対戦した田中氏だが、「相手を『すごい』と感じることはあまりなかった。常に自分の技術が足りない、練習しなきゃ、と思うだけでした。それが良かった」と言う。その背景には、田中氏が高卒1年目の1986年に早くも1軍戦14試合に出場し、翌87年には当時の高田繁監督に将来性を買われ、遊撃のレギュラーに抜擢され、打率.203に終わったものの112試合に出場した経験がある。

「清原(同い年で1年目に31本塁打を放った清原和博氏)は別格として、高卒1、2年目にプロの球に対応するのは難しいですよ。高校までストレートとカーブしか見たことがなかったので、初めてスライダーを見た時は、真っすぐに見えて振ろうとすると逃げていく、こんなボール当たらないと思いました。フォークもそう。すごいと言い始めたら、全投手がすごい。相手に感心している暇はありませんでした」と振り返る。

それでも「やっていくうちにスピードに慣れて、自分のスイングも速くなって、ボールを手元まで引き付けて打てるようになってきた。そうすると、変化球の軌道が見えてきて、対応できるようになった」と説明。「レベルの高い所に放り込まれてやっていると、自分のレベルも上がっていく。早い時期に1軍で使っていただいたことは、自分にとってプラスでした」と感謝する。

最初は蟷螂の斧のような心細さで1軍の投手に立ち向かい、キャリアを積んだ後も、一流投手に対し若い頃と同じ気持ちで臨んだことが、名球会入りを果たすまでになれた秘訣だった。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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