大人も子供も「みんなガス室に向かった」 戦後75年、ユダヤ人女性が見た無数の死 アウシュビッツ生存者の消せない記憶(1)

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)に到着し、選別を受ける人々。制服姿で手前に立つのはナチス親衛隊員、左手前の縦じまの服の人々は収容者。1944年、親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)

 第2次大戦中、ナチス・ドイツが占領下のポーランドに設置したアウシュビッツ強制収容所がソ連軍に解放されて今年で75年になった。欧州各国から約130万人が移送され、110万人以上が命を落とした。ガス室、餓死、銃殺、病死。あらゆる種類の死が待ち構え、収容所を生き永らえた人々は死の記憶とともに戦後を歩まなければならなかった。あの場所で何を見たのか、残り少なくなった生存者が体験を語った。3回続きで報告する。(共同通信=森岡隆)

 ▽偽りの音

 貨車を降りた人々は笑い、あいさつを送ってよこした。軽やかな音楽が演奏されている。「それほどひどい場所ではないだろう」。人々の心中が伝わってくる。女性に男性、子どもに高齢者、みんなが目の前を通り過ぎる。行き先はガス室。彼らの運命を知っていたが、楽団の一員としてアコーディオンを弾き続けた。背後には銃を持ったナチス親衛隊(SS)隊員が立つ。この後間もなく、シャワーを浴びるとの説明を受け、ガス室に詰め込まれた人々。警告できるチャンスはなかった。演奏しなければ自分が撃ち殺されていただろう。自身も捕らわれの身だった。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)のガス室に向かうユダヤ人の親子。1944年、ナチス親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)

 大戦さなかの1943年、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所(第2収容所)。ドイツ生まれのユダヤ人女性エスター・ベジャラーノさん(95)は当時18歳で、貨車で送られてきたユダヤ人たちの前で連日演奏していた。

 人々は到着直後、ガス室に行くか強制労働に就くか、SSの医師に選別された。7割以上はガス室。子どもや幼子を連れた母親、高齢者、病人らはガス室行きだった。人々の不安を和らげ、ガス室に送る―。SSは約40人の女性で楽団を編成し、偽りを演じさせた。人体実験を重ねて「死の天使」と恐れられたSS大尉の医師ヨーゼフ・メンゲレが時には自分たち収容者の前に立って選別をした。誰かの顔が気に入らなければ手を右に振ったメンゲレ。それはガス室行きだった。左だと死までの猶予が与えられた。

歓談するアウシュビッツ強制収容所の親衛隊将校ら。1944年撮影。手前右は初代所長のヘスSS中佐で、戦後の47年にアウシュビッツで処刑された。左から2人目が医師メンゲレ(米ホロコースト博物館提供・共同)

 ▽左腕の番号

 ベジャラーノさんも数カ月前、家畜運搬用の貨車でドイツの首都ベルリンから送られてきた。4月の昼下がり。移送列車は見ず知らずの場所に着いた。数人の平服の男たちが子連れの女性や病人、45歳以上の男女は車に乗るよう言って回っていた。病人を車で運んでくれると思い、恐怖心が和らいだ。

 「死の門」と呼ばれた収容所の入り口を通り過ぎると雰囲気は一変した。「忌まわしいユダヤ人ども。思い知らせてやる」。男女の看守が叫んでいた。髪をそられ、左の前腕に藍色のインクで囚人番号を入れ墨された。41948。この場所がビルケナウで、到着時に車に乗った人々がガス室に送られたことを知った。平服の男たちはSS隊員だった。

 ▽生死のはざま

 女性の労働班に入れられ、野外で大きな石を運んだ。翌日は同じ石を元の位置に戻す。1日11時間労働。持ちこたえられずに倒れた女性はその場で撃ち殺されるか、ガス室送りになった。「SSの狙いは無意味な労働で人々を死に追いやることだった」。1日の食事はパン1個と薄いスープ。限界を感じた頃、楽団に採用された。朝晩、労働に行って戻る収容者の前で行進曲の演奏を命じられた。自身は肉体労働を免れたが、彼らは逃げられない。気持ちが沈んだ。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)で、所内に移動するユダヤ人の女性収容者ら。背後に立つのはナチス親衛隊員。1944年、親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)

 大勢の死を見続けた。逃亡を図った収容者は殴り続けられた末に命を落とし、意識を失うまで収容者をむち打った女性看守もいた。絞首刑が公開で行われ、死んでいく人々を見るよう強制された。電流の流れる収容所の有刺鉄線に身を投げた友人たち。夜には大勢が恐怖心から叫び声を上げる。ガス室に併設された遺体焼却炉は昼も夜も稼働し、収容所はいつも煙に覆われていた。自分はいつガス室に行くのだろう―。終わりのない不安。そしてチフスにかかった。

 ▽殺人者に救われ

 オットー・モルというSSの下士官がいた。ガス室担当で、いつも大型犬を携えていた。女性収容者を見掛け、何かが気に入らないと犬をけしかけて体を引き裂かせた。

 モルは音楽が好きで楽団の演奏をよく聞いていた。収容所の病舎で死にかけていた自分を見つけ、同じく収容者だった女性医師に「回復させろ。そうでなければ撃ち殺す」と迫った。人を殺し続けたモルがどうして救いの手を差し出したのかは今も分からない。医師から薬を与えられ、回復していった。

 移送から7カ月後の43年11月、父方の祖母がドイツ人だったため、ベルリン北方のラーフェンスブリュック強制収容所に移され、潜水艦の部品をつくる工場で働いた。「アウシュビッツを生き延びられたのは祖母のおかげだった」

 ドイツの戦況は悪化を続けた。東から敵のソ連軍が迫り、45年4月末、SSは収容者に徒歩移動を命じた。落後者は射殺される「死の行進」。ドイツ北部の森を移動中、仲間6人と隊列を抜け出し、西から進んできた米兵と出会った。近くの町の広場でナチス総統ヒトラーの絵を燃やし、みんなでその周りを回った。米兵にもらったアコーディオンを弾く。「それが私の解放だった」。数日後、ドイツは降伏。20歳になっていた。

 ▽75年目の疑問

 戦後、両親がナチス占領地域で殺され、姉もアウシュビッツで死んだことを知った。ユダヤ人男性と家庭を築き、子どもに恵まれた。ドイツ北部ハンブルクで暮らし、約30年前から学校で体験を語っている。戦後75年、頭を離れることがなかった死に満ちた記憶。生徒の真剣な反応に証言が次世代に受け継がれると確信している。

アウシュビッツでの体験を振り返るエスター・ベジャラーノさん=2月、ドイツ・ハンブルク(共同)

 だが、ナチスの過去への反省が国是のドイツで近年、排外主義の右派政党が台頭し、極右による殺人事件も起きる。ベジャラーノさんの心中は複雑だ。「この国に再び極右思想や人種差別が現れると想像できなかった。人々は何を学んできたのか」(続く)


【アウシュビッツ生存者の消せない記憶】

(2)憎しみの矛先、再びユダヤ人に ナチスの惨劇「また起こり得る」https://this.kiji.is/691164939247420513?c=39546741839462401

© 一般社団法人共同通信社