日本史上最大の兄弟喧嘩 「観応の擾乱」をわかりやすく解説

1333年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は鎌倉幕府を倒し建武の新政を行ったが、公家よりの政策が多くの武士の反感を買い、失敗に終わる。

その後、謀反を起こした足利尊氏は、1338年に光厳天皇(こうごんてんのう)によって征夷大将軍に任命される。

後醍醐天皇は吉野で南朝を開き、天皇が2人いる形の南北朝時代にはなったものの、足利尊氏による室町幕府が成立した。

こうした情勢の中で、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる、室町幕府の大きな内乱が起こる。

この記事では、「観応の擾乱」とはなんなのか? なるべくわかりやすくシンプルに解説していく。

室町幕府の二頭政治と高師直

昔は源頼朝の肖像画だと言われていたが、近年足利直義とされる説が提示されている

初期の室町幕府は足利尊氏が将軍となり棟梁として武士をまとめていたものの、弟である足利直義(あしかがただよし)が武士の訴訟や政務の処理などを行い、二人で幕府の運営を行ういわゆる二頭政治が行われていた。

この2人の関係は兄弟だったこともありかなり良好だったそうで、直義は兄の補佐をする事を誓っており、尊氏は弟の直義が幸せになるように鶴岡八幡宮に願掛けを行うほどの仲だったといわれている。

しかし、とある人物のせいでこの関係が一気に悪化することになる。

直義は、尊氏の重臣である高師直(こうのもろなお)とは、どうにもそりが合わなかった。

それもそのはず、直義は鎌倉幕府のような復古的な政治を目標としていたのに対して、高師直はいわゆるばさら大名(身分秩序を無視した実力主義的な思想を持つ大名で、後の戦国時代における下克上の萌芽ともなった)であった。

高師直は革新的な考えを持っており「天皇や院なんて木彫りの人形でもいいだろう」といった発言までする始末だった。

このような状況で両者に折り合いがつくはずもなく、幕府内は険悪な空気となっていく。

足利直義 排除のクーデター

高師直像(こうのもろなお)以前は足利尊氏とされていた。高師詮説もある

こんな状況の中、南朝の懐良親王(かねよししんのう)が九州を制圧。さらに楠木正成の息子である楠木正行(くすのきまさつら)が北朝の重要拠点を制圧し、幕府軍をどんどん撃破していった。

しかしこれを抑えたのが高師直(こうのもろなお)だった。

高師直は四條畷において楠木正行を撃破。

正行を討ち取ったことにより、高師直の幕府内での影響力はますます増大していった。

このことに危機感を覚え始めた直義は、ついに高師直排除に動き出す。直義は尊氏に対して「高師直には謀反の兆しがある」として、室町幕府の執事であった高師直を解任に追い込む。

しかし高師直はこれに反発し、反直義派の武将と共にクーデターを起こし幕府を占領。

直義派の上杉重能を殺害し、直義を排除するように尊氏に願い出る。尊氏も状況的に直義をかばいきれなくなり、直義を解任し、頭を丸めて出家するように命じた。

こうして直義は幕府から去り、高師直のクーデターは成功したのである。

直義、南朝につくってよ

足利直義(勝川春亭画)

こうして幕府を去った足利直義であるが、直義は高師直を打倒するためにとんでもない行動に出た。

なんと足利家最大の敵、南朝に降伏し手を結んだのである。

直義からすれば、南朝側につくことによって南朝側にいた武将や兵を使うことが可能となるので有益だった。

一方の南朝側も楠木親子や北畠顕家など有能な武将を失っており、さらに後醍醐天皇が亡くなり衰退しかけていた状態で、直義と組むことには大きな利点があった。

こうして南朝勢力を味方につけた直義は逆クーデターを実行。京都を襲撃して尊氏軍を撃破した。

こうなると尊氏としても高師直を排除せざるを得ない状況となり、「高師直の出家」を条件に直義と講和。

高師直はその後、京都に護送される時にかつて自身が殺害した上杉重能の息子である上杉能憲によって暗殺されてしまった。

高師直は首を晒され、胴は川に打ち捨てられるという無残な殺され方をして、高家一族はまるごと誅殺されたのである。

高家は長年足利家の筆頭重臣として仕え、多くの功績を上げてきたが、室町幕府の初期に政権から姿を消す形となった。

正平一統の成立と擾乱の終わり

こうして再び足利直義は幕政に復帰し、ようやくこの内乱も終わったかと思われたがそうはならなかった。

直義の政治に反抗していたのは高師直だけではなかった。他の反直義派の武将たちが次々と直義派の重臣を襲撃し、再び状況は悪化していった。

直義はこの状態では自身の身も危ないと判断し、直義派の武将たちと一緒に地盤勢力であった鎌倉に逃れる。

尊氏は再び慌てることとなる。このままいけば直義は鎌倉の武将を引き連れ、九州で確固たる勢力を築いている南朝と一緒に攻めてくるかもしれない。

尊氏はこの最悪のシナリオを避けるためになんと南朝に降伏し、直義の追討を求めた。

降伏の条件は、「北朝の天皇を廃位・三種の神器を南朝側に返還する」という全面降伏同然の過酷なものであった。尊氏はこうまでして南朝と直義が組む流れを断ち切ったのである。

こうして南北朝は南朝主導で統一(正平一統)され、尊氏は無事に背後の安定を確保したと共に、直義の追討綸旨を手に入れることに成功した。

こうして万全の状態を整えた尊氏軍は、直義打倒のために鎌倉に出兵。

薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)で直義軍を撃破し、直義はついに降伏。

尊氏は直義を鎌倉の浄心寺に幽閉し、その後 直義は浄心寺にて急死。公には病没とされたが毒殺されたという説もある。

こうして観応の擾乱と(かんのうのじょうらん)呼ばれる一大内乱は終結した。

観応の擾乱の影響

「観応の擾乱」は室町幕府の初期に、幕府内での足利直義と高師直による争いから始まり、最終的には尊氏と直義との兄弟対決となり、尊氏が勝利し直義が死亡することで収束した。

そしてその背景には常に南朝が絡み、意外なことだがこの時点では南朝が大きく巻き返しており、南北朝は南朝主導で一時統一されていたのだ。

天皇・皇太子・三種の神器も全て南朝にあり、正平一統されたことで正当性も南朝にあった。さらに尊氏は征夷大将軍も解任されており、幕府と北朝は瀕死の状態であった。

その後、尊氏と北朝が巻き返し、結局室町幕府の時代となるわけだが、現在でも南朝の正統性の議論が残る大きな要因の一つとなっている。

(文 右大将

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