黄金の6年間:学園ドラマ「3年B組金八先生」が歴史に残る金字塔になった理由とは? 1979年 10月26日 TBSのドラマ「3年B組金八先生」の放送が始まった日

時代はクロスオーバー、武田鉄矢と「3年B組金八先生」

昨年の1月から、僕はこのリマインダーで「黄金の6年間」と称するコラムを連載している。

黄金の6年間とは、1978年から83年までの6年間のこと。東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代である。音楽を始め、映画や小説、テレビ、広告、雑誌など、メディアを舞台に様々なジャンルが境界線を越え、クロスオーバー化が進んだ。新しい才能が次々に頭角を表し、角川春樹は小説と映画と広告の世界を横断。村上春樹は文壇を嫌い、イラストレーターやコピーライターとコラボを始めた。

そんな中、ミュージシャンと俳優の世界を行き来する男がいた。男の名は武田鉄矢。今回は彼の話である。奇しくも今日、10月26日は、今から41年前の1979年に、ドラマ史に残る金字塔『3年B組金八先生』(TBS系)がスタートした日に当たる。

歌うは海援隊、ドラマ主題歌「贈る言葉」はミリオンセラー

 暮れなずむ町の
 光と影の中
 去りゆくあなたへ
 贈る言葉

主題歌は「贈る言葉」。作詞:武田鉄矢、作曲:千葉和臣、歌うは海援隊である。リリースはドラマの放映開始から6日後の1979年11月1日。しかし、当初はさほど注目されず、この年の2ヶ月間で売れたのは、わずか1万2000枚だったという。

それが、年が明けて80年になると、ドラマの視聴率が20%台に上昇すると共に、主題歌も注目を浴びる。そして卒業式シーズンの3月を迎える頃には、視聴率は更に30%台へ上昇し、最終回は39.9%。「贈る言葉」もオリコン1位を射止め、6週連続トップに君臨。ドラマは社会現象となり、2011年まで続くロングシリーズへ。主題歌もミリオンセラーに達し、卒業式の定番ソングになった。

 悲しみこらえて 微笑むよりも
 涙かれるまで 泣くほうがいい
 人は悲しみが 多いほど
 人には優しく できるのだから

何ゆえ、これほど『金八先生』はヒットしたのか。その答えが、冒頭でも話した「黄金の6年間」にあるという次第だ。つまり、同ドラマは時代の求めに応じて登場し、見事に波に乗ったと。鍵は―― “リアリティ” である。

ヒットの要因は “リアリティ” 金八以前の学園ドラマは?

そう、リアリティ――。
これも「黄金の6年間」を構成するファクターの1つであり、これ抜きで『金八先生』は語れないと言っても過言ではない。

ざっくり言えば、日本の連ドラ史において、学園ドラマは2つに分けられる。『金八』以前と、以後である。“以前” とは、1965年の『青春とはなんだ』に端を発する、いわゆる日テレの日曜夜8時の一連の学園ドラマのこと。落ちこぼればかりを集めたクラス(大抵、2年D組)を舞台に、型破りな熱血教師が、生徒たちをラグビーやサッカーなどを通して更生させる物語だ。要するに、パターン化された青春ドラマ。「夕日に向かって走ろう!」 等のクサすぎる台詞は、今やコントなどでしか見かけない。

一方、『金八』“以後” とは、教師も生徒も共に悩み、苦しみ、泣き、笑うドラマのこと。エピソードは多岐に渡り、パターン化されていない。前者との違いは、会話のディテールに “リアリティ” があること。『金八先生』を始め、『うちの子にかぎって…』、『白線流し』、『GTO』、『さよなら、小津先生』、『ROOKIES』、『鈴木先生』など、80年代以降の多くの学園ドラマがこのタイプだ。

 さよならだけでは
 さびしすぎるから
 愛するあなたへ 贈る言葉

要するに、『金八先生』が今日に至る学園ドラマの礎を築いてくれたのだ。同ドラマがなければ、今も学園ドラマは夕日に向かって走っていたかもしれない。では、そんな『金八先生』自身はどのようにして生まれたのか。話はドラマが始まる4ヶ月前にさかのぼる。

金曜8時は視聴率激戦区、敵はプロレスと太陽にほえろ!

時に1979年6月――。
当時、TBSは “鬼門” に悩まされていた。鬼門とは視聴率が取れず、立ち上げた番組がことごとく短命に終わり、番組が定着しない枠のこと。どこの局にも、その手の枠はあるが、TBSの場合、“金曜8時”、通称 “金八” 枠がそうだった。

そう、金曜8時と言えば、長年に渡って強敵『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)が鎮座していた枠である。しかも70年代後半は、テキサス(勝野博)からスニーカー(山下真司)に至る全盛期で、視聴率が常時30%台もあった。そしてテレ朝も、新日プロの『ワールドプロレスリング』中継で、実況は入社3年目の古舘伊知郎アナ。ちょうど80年代のプロレスブームに向けて、こちらも盛り上がりつつあった。

それらを敵に回して戦うものだから、いくら当時 “一強” と呼ばれたTBSでも、苦戦を強いられたワケである。前年の1978年には、往年の大ヒットドラマ『七人の刑事』を9年ぶりに復活させて挑むも―― 低視聴率に加え、『太陽~』と同じ刑事ドラマ対決で惨敗する二重の屈辱を味わう。結果、同ドラマは1979年秋をもって終了することが決まる。

そこで、それに先立つ1979年6月、10月開始の新ドラマの担当者として白羽の矢が立ったのが、当時、木曜夜10時のドラマ枠「木曜座」で、『愛と喝采と』を手掛けていた柳井満プロデューサーだった。柳井Pは同ドラマの劇中歌に岸田智史の『きみの朝』を起用して、リアルでもヒットさせるなど、その手腕が買われたのだ。

TBSプロデューサー柳井満、脚本を小山内美江子に依頼

とはいえ、10月の放映開始まで、あと4ヶ月。こんな時は、旧知の脚本家に頼むしかない―― そう考えた柳井Pは、『ポーラテレビ小説』で何度も仕事をした仲の小山内美江子サンに依頼する。

「やるだけやってみましょうよ。駄目でモトモトじゃないですか」

――だが、この申し出を小山内サンは一旦断る。当時、彼女はNHKの朝ドラ『マー姉ちゃん』を執筆中で、スケジュール的に無理と判断したのだ。だが、頭の片隅には、かねてより温めていた企画もあり、彼女の中に未練が残った。そこで、柳井Pから7月に再度打診(一度断られたくらいで諦めるプロデューサーはいない)された際、思わず二つ返事でOKしてしまう。

小山内サンの企画は、中学を舞台にした等身大の学園ドラマだった。彼女には高校1年になる一人息子(現在、俳優や映画監督として活躍中の利重剛サンですナ)がおり、母として3年間、中学生を育てた経験から、色々と思うところがあったのだ。彼女はその思いを柳井Pに打ち明けた。

「中学3年生は、高校受験という人生で初めて選別を受ける年代です。私は、この3年生たちに“選ばれるな。自分の人生だから選んでいけ”―― そう訴えたい。これは応援歌です」

この企画に、柳井Pも即決で賛同する。時間がないから―― ではなく、ひょっとしたら行けるかもと踏んだのだ。リアリティを重視した学園ドラマは、この年の3月まで半年間放映され、小学校が舞台ながら最終回で驚異の40%という高視聴率を記録した、日本テレビの『熱中時代』があったからである。

狙うは「熱中時代」の中学生版、教師役に武田鉄矢を大抜擢!

そう、実は『熱中時代』こそ、学園ドラマのリアリティ路線の元祖だった。水谷豊サン演じる新米教師の北野広大は、不器用ながら何事も体当たりでぶつかった。それまで学園ドラマの主人公の教師は、熱血漢の万能タイプが多かったが、北野先生は子供たちと一緒になって悩み、落ち込み、そして笑った。放映開始は1978年10月。文字通り、黄金の6年間の幕開けに相応しい、新しい学園ドラマだった。

柳井Pはその中学生版を狙ったのだ。だとすると、主人公の教師役は二枚目じゃないほうがいい。不器用ながら、生徒たちと一緒になって悩んでくれる人間味あふれる先生―― 小山内サンとも相談し、柳井Pは『愛と喝采と』でミュージシャンの岸田智史を役者として起用して好評を博した経験から、再び音楽畑からの抜擢を考える。狙いを定めたのは、1977年に山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』に出演し、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した武田鉄矢サンである。

かくして、主人公・坂本金八の配役が決まる。早速、武田サン、小山内サン、柳井Pの3人で顔合わせを兼ねた食事会を催したところ、挨拶もそこそこに、小山内さんはこう切り出した。

「素朴な疑問だけど、貴方のその髪、伸ばしているのには、何か哲学があるんですか?」
「えっ、いえ、切ってもいいンです。いや、むしろ今度が切るチャンスかもしれません」
「ううん、別に切らなくたって構わないの。もし貴方に哲学があるのなら、それを聞きたいし、伸ばしてもおかしくない理由があれば、それは生かしたいと思って」

それを聞くなり、武田さんはスッと立ち上がり、髪を両手で後ろに束ねて、こう返事をしたという。

「こうやるとボク、坂本竜馬に似ているでしょう?」

彼もまたプロデューサー、断られても諦めないジャニー喜多川の執念

会食後、小山内サンは会心の主役のキャラクターにほくそ笑み、早速、脚本執筆のためのリサーチに入った。ネタ元は息子の利重剛サンやその旧友たち、それから中学生に関する新聞記事や雑誌記事も集めまくった。あの「十五歳の母」も、モデルとなった少女がいた。綿密な取材に基づく脚本作り―― それが小山内サンの仕事のスタイルだった。

一方、柳井Pは舞台となる、荒川の河川敷近くの中学校を訪ね、劇中の “桜中学” のロケ地使用の許可をもらう。そして、共演する先生たちのキャスティングと、3年B組の生徒たちの選定に入った。生徒役は複数の児童劇団に声をかけ、写真選考と面談を経て30人を選出。「十五歳の母」の杉田かおると鶴見辰吾は演技力で選び、一人大人びた三原順子(現・じゅん子)は即決だった。

そんなある日、柳井プロデューサーのもとへ1本の電話がかかってくる。相手はジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長だった。どこで聞きつけたのか「ウチにも若い子が10人くらいいるので、会ってください」という。柳井Pは「選考は終わった」と一旦断るが、あまりに懇願されるので、会うだけ会うことにした。

―― その中に、田原俊彦、近藤真彦、野村義男の3人がいた。ドラマ『3年B組金八先生』のクランクインは、もう間近に迫っていた。

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※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。

カタリベ: 指南役

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