<社説>社大党結党70年 土着政党の強み発揮を

 地域政党として沖縄の戦後復興をリードした沖縄社会大衆党(社大党)が10月31日で結党70年を迎えた。高良鉄美委員長は談話を発表し「復帰後も残った広大な米軍基地から派生する事件事故は後を絶たない。真の『平和憲法の下への復帰』が達成されていない」と述べ「土着政党だからこそ、まだまだ求められることはある」と強調した。 日本による琉球併合や米国統治など独特な歴史を歩んだ沖縄にとって、社大党がこだわる「土着」は、沖縄のアイデンティティーを追求することと重なる。土着政党として沖縄の独自性を第一に、山積する課題解決に取り組んでほしい。

 時には存続が危ぶまれ、「政界の孤児」などとやゆされた社大党が70年続いていることには理由がある。

 一つは本土系列化を拒否し続けてきたことだ。戦後、県内政党など組織が中央の傘下に入るに伴い、中央での対立が沖縄に持ち込まれることもあった。社大党は沖縄の日本復帰を最大の目標に掲げ、勢力の結集に注力した。復帰運動を通し節目節目で革新勢力の要となり、革新政党間のつなぎ役も担ってきた。この独自路線が広く支持された。

 復帰のめどが立つと党内で解党論が浮上する。一方で在沖米軍基地は存続し、最大限の自由使用を米国に認める沖縄返還協定が1971年に国会で強行採決された。復帰を目指す有力団体を網羅した沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)は「米軍基地の撤去」を運動方針に掲げていたが挫折する。

 当時の平良幸市社大党書記長は「復帰の中身は県民が望んできた真の復帰ではない。社大党は真の復帰を勝ち取るまで存続する」と宣言した。今日も続く広大な米軍基地の負担が、社大党の役割を依然、変わらないものにしている。それも存続の理由の一つだ。

 ただ社大党は近年、衰退傾向だ。結党当時は沖縄群島知事だった平良辰雄氏を委員長に、群島議会議員20人のうち15人が入党する華々しい船出だった。当時の平良幸市副書記長や西銘順治青年部長は後に知事となる。県内政界をけん引する顔ぶれが並んでいた。

 党勢はその後、盛衰を繰り返し、現在は参院議員1人、県議2人、市町村議員6人にとどまる。党員・党友の高齢化も顕著だ。社大党は、もともと議員政党の性格があり、政党助成金の要件を満たさない地域政党である。所属議員や党員の減少は財政を直撃する。党勢拡大や若手の育成、政策発信力など課題は多い。

 先の平良幸市氏は「社大党の歴史は即沖縄の戦後政治史だ」と述べた。住民の息吹に直結した政治への自負である。現在の辺野古新基地建設問題を見ると、社大党が理念に掲げる「真の地方自治の確立」から沖縄の現状はほど遠い。結党宣言から党の基底とする「ヒューマニズム」を原点に、独自性を生かす政治が社大党に問われている。

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