一時は死も覚悟した…大病乗り越えた元中日左腕が“わらび餅”を売り続ける理由

中日、広島で活躍した山田喜久夫さん【写真:福岡吉央】

中日、広島で222試合登板、左の中継ぎ投手として活躍した山田喜久夫さん

高校時代に愛知の強豪、東邦のエースとして1989年の選抜大会で優勝し、中日、広島で左の中継ぎ投手として活躍した山田喜久夫さん。平成最初の甲子園優勝投手となった山田さんはプロ野球の世界でも10年間で222試合に登板して6勝8敗、防御率3.76の成績を残し、99年に引退した。翌2000年から横浜、中日で打撃投手を計13年間務めた後、名古屋市内でわらび餅屋「喜来もち ろまん亭」を開き、今年で8年目になる。プロ野球選手がセカンドキャリアとして飲食店を経営するのは珍しくないが、なぜわらび餅屋を選んだのか――。ナゴヤドームの近くに店を構え、毎日店頭に立つ山田さんのもとを訪れた。

「いらっしゃいませ」「またよろしくお願いします」……。従業員とともに自ら店頭に立ち、接客する山田さん。わらび餅を仕込む手つきも慣れたものだ。ナゴヤドームからわずか200メートルの距離にある店には、その手作りの絶品の味を求め、常連客が足を運ぶ。

99年の現役引退後、00年から07年まで横浜、08年から12年まで中日で打撃投手を務めていた山田さん。中日との契約が終わると、一度はサラリーマンに転身した。勤め先は車のETCカード読み取り機の販売店で、任された仕事は営業マン。だが、相手の会社の都合で契約をキャンセルされるなど苦労を味わい、わずか1か月で見切りをつけて起業を決心した。

きっかけは、中日を退団する際、関係者への挨拶に持参した手土産のわらび餅だった。「いろんな方から『これ美味しいから、キクちゃん、自分で覚えて売ったらどう?』って言われたんです。それまでは、あまりわらび餅には興味はなかった。でも生活もある。それで、なんとか覚えてダメなら店を潰して、また何か違うことをやろうと思ったんです」。

親も3人の息子たちも皆、最初は反対だった。「和菓子屋だと売り上げが少ない時もある。サラリーマンのほうが安定していて手堅いと言われた」。だが、山田さんは一念発起し、わらび餅の購入先だった愛知県稲沢市にある「町屋かふぇ」で約半年間修行。偶然、ナゴヤドームの近くで物件が見つかったこともあり、13年の野球シーズンの開幕に合わせ、店をオープンした。息子たちも、ナゴヤドームに野球を見に来たファンにビラを配って父を助けた。

わらび餅作りは、適温を保ちながら餅を練り上げていく地道な作業。「火加減が一番難しい」といい、修行時代は汗だくになりながら、大きな鍋に入った材料をしゃもじでかき回していた。「味が美味しくないと、また買いに来てもらえない」と、味にはとことんこだわり、使用するのは本わらび粉と京都産大豆100パーセントのきな粉。大量注文も受けられるようにと、店には機械を導入したが、火加減や味のチェックは日々欠かさない。

名古屋には餡子やういろうなど、昔からの和菓子文化がある。一方で、舌が肥えているため、味にはうるさい。だからこそ、中途半端なものは作りたくなかった。一流のプロの世界で戦ってきた山田さんのこだわりだった。

現在はナゴヤドームの近くでわらび餅屋を経営している【写真:福岡吉央】

吉見一起や大島洋平、荒木雅博コーチらが常連 現役時代に対戦した人らも来店

中日の吉見一起や大島洋平ら選手、荒木雅博1軍内野守備走塁コーチら球団関係者が店の常連に。さらに、相手チームの監督やコーチ、野球評論家など山田さんが現役時代に対戦した当時の選手らも、名古屋遠征の際に立ち寄ることが多く、店内には多くの色紙が並ぶ。ファンや地元の人の間でも味の評判が口コミで広がり、いつしか敵チームのファンが試合観戦前に足を運んだり、他県からわらび餅だけを目当てに買いに来るようになった。

だが、ここまで順風満帆という訳ではなかった。知名度、そして山田さんの親しみやすいキャラクターもあり、スタートは成功だった。1日1000箱近く売れた日もあった。だが、反動も大きかった。

「最初はよかった。でも、2、3か月経てば忘れられる。その後、お客さんが1日2人、3人の時もあった」

それでも諦めず、来客が少なくても店頭に立ち続けた。飽きられないようにと、味も増やした。結婚式の引き出物やゴルフコンペの景品としての注文が入るようになり、百貨店の催事や、出身地である愛知県弥富市の祭りなど、イベントにも呼ばれるようになった。飲食店がデザート用に注文するケースは増え、高校の文化祭用に大量注文が入ることも。正月年賀やお彼岸用に購入する人もおり、遠方からの注文にもパレットで発送対応している。バレンタインの時期には生チョコわらび餅、夏のシーズンにはわらび餅ソフトクリームと、季節に応じたアイデア商品をインスタグラムで発信するなど、常に生き残る道を考えている。

「『美味しかったから、また来たよ』『今まで食べてたわらび餅って何だったんだろうって思った』って笑顔で言われたら、やっててよかったなって思いますね。まずかったら次は買わないだろうけど、2回、3回と使ってくれる。うちは常連さんが多いし、季節に関係なく買いに来られる。お客さんの口コミが一番大きい。本当にありがたいですね」

ポリシーは、できる限り店頭に立つこと。写真撮影にも気軽に応じる。客の多くが「山田喜久夫の店」と認識して来店しており、山田さんに会うことが目当ての人もいる。そんなひとりひとりの客を大切にしたいというおもてなしの心が、山田さんをそうさせている。

「引退して店をやる人は多いけど、みんな人に任せている。でも、それだと最初はいいかもしれないけど、結果が分かる。店に立たないといけないと思った。そうでないと、いい結果を生まない。会って握手のひとつでもすれば、またよろしくお願いしますっていうのが伝わる。『キクちゃんいたよ』『じゃあ行ってみようか』ってなる。だから配達の時以外は店に立つようにしています」

慢性腎不全で死を覚悟…「体も元気になったから、もう1回挑戦しようと思った」

だが、そんな山田さんをある時、病が襲った。腎臓を悪くし、来客時以外は店の前に停めた車の中で椅子を倒して横になっている日々が続いた。「目の前のスーパーにタクシーで行こうかと思うくらい体がしんどかった」。診断名は慢性腎不全。死を覚悟した山田さんは、3人の息子たちに「俺は終わっていくけど、お前たちは頑張っていけ」と、遺言まで残していた。だが、妹が腎臓を提供してくれることになり、昨秋、移植手術を受け、一命を取り留めた。

「手術しなかったら、慢性腎不全で死んでいた。でも、体も元気になったから、もう1回挑戦しようと思った。妹に感謝しないといけないですね」

約2か月の入院中は、長男の斐祐将(ひゅうま)くんが仕込みを覚え、山田さんの代わりに店を手伝ってくれた。山田家では3人の息子は皆、父親の後を追い、東邦の野球部に入っている。長男はちょうど高3の夏を終え、部活を引退した直後だった。学校の授業を終えると、毎日店に出向き、翌日用にわらび餅を仕込んだ。一時とはいえ、閉店すれば客足は遠のく。そんなピンチを息子が救ってくれた。

コロナ禍の現在は、ナゴヤドームへの客足が減っているあおりを受け、売り上げにも影響が出ている。予定されていた東京出店の話も立ち消えた。ナゴヤドーム内のレストランでもパフェなどにわらび餅が使用されていたが、現在は出荷がストップしており、中日のファームの試合が行われるナゴヤ球場での販売も延期となった。それでも、6月からは国産の銀鮭や唐揚げなどを使った手作りの「キクちゃん弁当」の販売を始め、わらび餅もご進物用に化粧箱入りの商品をつくるなど、アイデアをひねり、店の営業を続けている。

「弁当は母校の東邦から注文が入り、始めることにしました。野球の試合会場にも配達できるよう、大量注文にも応じています。ナゴヤドームが無観客、5000人までの時はお客さんも激減したけど、今は少し戻ってきたかな」

術後は体調も回復傾向にあるが、まだ通院は続けており、薬を手放すことはできない。医者からは新型コロナウイルスに感染すると重症化すると言われており、うがいや手洗いは欠かせない。店も換気をよくするために、冬の間もドアは開けっ放しで営業するという。だが、コロナには負けていられない。山田さんは、その自慢の味を求めて店を訪れる客の笑顔を見るために、今日も店頭に立ち続ける。

「喜来もち ろまん亭」
愛知県名古屋市東区矢田南2-7-5
052-722-3310
営業時間 10時から15時、ナゴヤドームでプロ野球やイベント開催時は17時まで。
月曜定休

【画像】東邦高校のエースとして甲子園出場 平成最初の優勝投手となった山田さんの当時の写真

【画像】東邦高校のエースとして甲子園出場 平成最初の優勝投手となった山田さんの当時の写真 signature

(福岡吉央 / Yoshiteru Fukuoka)

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