政治のしもべにならぬための闘い 科学こそ弾圧に抗う力 日本学術会議は反日か(3)

By 佐々木央

左から坂田昌一、益川敏英、一人おいて右端が湯川秀樹(敬称略)=1967年ごろ(名古屋大学理学部の同窓会会報から)

 日本学術会議は1949年の第1回総会で声明を採択した。そこには「これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し」という文言がある。反省の対象を「特に戦時中とりきたった態度」とするという修正提案があったが退けられた。総会に参加した物理学者の坂田昌一が感想を書き残している。(47NEWS編集部・共同通信編集委員=佐々木央)

 ■教授を「先生」と呼ばない

 「日本学術会議第1回総会で、もっとも深い感銘をうけたのは二日目の祝賀会席上で行われた羽仁五郎会員のテーブル・スピーチであった」。そう坂田は書き起こす。 坂田によれば、羽仁は日本の学問の過去の在り方に峻烈なる反省を示し、スピーチをこう結んだ。

 「この国において理性が二度と再び後退せぬよう努力することをわれわれ日本学術会議会員一同は全世界の人民にむかって約束せねばならない」。だが、このスピーチに対する出席者の反応は鈍い。

 ―氏の一言一句に強い共鳴を覚えた私は破れるような拍手が堂に満つることを期待したが、実際には拍手の音が大きかったにも拘わらずあまりにもまばらな箇所からしか起こらなかったのでまことに意外な感じに打たれた―

 坂田にとってさらに残念だったのは、翌日の声明修正に関わる議論だった。

 ―議論をきいていると遺憾ながら未だこのような反省が実際には充分徹底的に行われていないという事実を認めざるを得なかった。(中略)科学者は国家の侵略的行動にたいして盲目であってよいというのであろうか。戦争の性格についての理性的な判断を放棄したことを恥としないのであろうか―

 坂田は20世紀後半の素粒子論研究をリードした。彼を慕い全国から名古屋大に若者が集まった。その中には、のちにノーベル賞を受けた小林誠と益川敏英もいた。研究では自由と民主主義を徹底した。教授を「先生」と呼んではいけないという不文律があった。真理の前では教授も学生もないということだろう。

 ■受動的態度を捨て社会的自覚を

 日本学術会議の「学問・思想の自由保障委員会」(羽仁五郎委員長)は、会議創設の翌年2月3日、福沢諭吉の命日に合わせ、講演会を開いた。講演者の1人が坂田だった。

大内兵衛(1967年撮影)

 まず経済学者の大内兵衛が講演した。大内は福沢諭吉の実践に基づき、学問の自由だけでなくジャーナリズムの独立を強調する。メディアにいる私にとって心に刺さる言葉だが、先を急ぐ。

 次の講演者が坂田である。演題は「現代物理学の発展とその環境」。一般向けの講演会であるためか、坂田は前述したような学術会議そのものへの不満は語らない。

 初めに、戦時中のドイツで学者への弾圧がどのようになされたか紹介する。その後、フランスの科学者たちのナチスへの抵抗運動が、どう組織され、どんな活動をしたのか詳しく説明した。坂田はそうは言わないが、日本の学者にも、オルタナティブ(もう一つの道)があり得たのではないかと、強く感じさせる。

 さらに各国の科学研究の状況に言及した後、日本の問題点を指摘する。輸入文化性と官(帝国大学)中心、そして軍事的性格である。それなのになぜ、湯川秀樹は前年、ノーベル賞を受賞できたのか。

ボーア研究所のアルバムに保存されていた1954年当時の坂田昌一博士の写真と自筆のサイン(「坂田昌一 コペンハーゲン日記」より)

 坂田は師である仁科芳雄の功績を強調する。仁科は戦前、日本初の原子核研究所を、民間の理化学研究所に作った。そこに日本中の研究者が集まった。

 ―自由な空気の中で、多数の研究者の協力による、近代的な研究様式と、場当たり主義を克服した近代的な研究方法によって、原子核の研究が始められた―

 それが湯川理論発展の基盤になったという見方を示す。坂田自身も研究において、自由と民主主義を大切にした。それは仁科に学んだのだと分かる。

 講演の終わり近く、坂田はこれからの科学者のとるべき態度として、与えられた環境の中で研究に専念していてはならないと述べる。2度の大戦やファシズムといった辛酸をなめたことで、各国の科学者は「科学の発展が、社会的環境と不可分の関係にある」と認識した。それゆえ「受動的な態度を捨てて、自らの手で学問の自由を獲得するために努力しなければならない」「科学者が社会的自覚を持ち、その環境に対して主体的な態度」をとらなければならないと戒めた。

 学問の自由は、学問の枠内にとどまっていては実現できない。それを侵そうとする動きに対して、不断の闘いを挑むという決意表明だろう。

 ■非科学的でおおげさな言葉

末川博(1976年撮影)

 最後に登壇したのは、民法学者で立命館大総長の末川博である。「科学と人間」というタイトルの通り、まず人類史と科学の発展を重ね合わせて概観するが、その部分の結論は「科学が果たして人類にとって恩恵をもたらすものであるか、あるいは呪いとなるのであるか、その分かれ目に立っている」という言葉であり、決して楽観的ではない。

 次いで学問の自由に焦点を移す。科学の本質は「真理を究め真理を語る」ことだが、世の中には真実を語られては困る人間がいる。その人たちが現実の支配力をもっていると、真実を語る者を弾圧し迫害する。それは現代でも起こり得るとして、自らが経験した1933年の京大・滝川事件を例に挙げる。その説明がとても分かりやすい。

 ―京都大学の教授をしていた頃、同僚の滝川幸辰君が書いた刑法読本という本が問題になった。その問題になったわかりやすい点をかいつまんで申しますと、まず、世には犯罪があるが「犯罪は、犯人の生活状態を改善しなければ、少なくならない。刑罰によって犯罪をなくすることは不可能である」つまり、社会的な生活環境をよくしなければ、刑罰をいくら重くしても犯罪をなくすることはできないというようなことを書いたのであるが、これは、マルクス主義的理論の刑法への展開だから、いけないというのである―

 刑法読本がやり玉にあげたられた理由の2点目は姦通罪に関する記述。姦通罪は女性だけを罰し、男はおとがめなしだった。滝川は「罰するなら両方を罰するか、罰しないなら両方とも罰しない方がよい」と主張した。

 ―時の政府は、これもマルクス主義的婚姻観だから許されぬというふうに解して、とうとう著者は危険思想のもち主で大学教授たるに適しないから休職を命じるというようなことになった―

 末川らは辞表を出して抗議し、京大を去る。2年後、天皇機関説事件が起き、学問の自由は根こそぎにされていく。

 ■科学を恩恵にするための選択

 末川は言葉に着目する。政治が科学を抑圧し、学問の自由を侵害するときは「忠君愛国」「滅私奉公」といった非科学的で大げさな言葉を使う。そのとき、その弾圧に抗する闘いもまた、科学の力によるべきだというのだ。

 ―非国民だと呼んだり、危険思想だといったりするだけで、簡単に社会から葬り去ってしまう。(中略)しかし忠君愛国という場合に、いったい、君とは何を意味し国とは何をいうか。そのことを科学的に批判し実質的に考察しなければならない―

 末川は自らが起草した学術会議設立総会の声明にも触れ、次のように述べる。

 (声明は)「これまでわが国の学者がとりきたった態度について強く反省」しなければならないことを力説している。これは、政治の侍女になったりなろうとした過去の卑屈な態度についての反省であり、ざんげである―

 ここに起草者の意思は明らかだろう。末川は続けて「学問は平和のためのものでなければならない。そうしてそうするためには、学問思想の自由を守らなければならない、そこに平和のための戦いが必要なのである」と述べる。その闘いこそが、末川が前半に述べた「科学は恩恵か、呪いか」という問いに対する彼自身の主体的な答えであり、選択であろう。

 ここに至って、坂田の思いと末川のそれは重なり合う。

 ただこのとき、彼らの意識の中心にあった学問の自由の危機とは、政治の弾圧や抑圧といった外部から来るものだったのではないか。いま学問の自由は、それに加えて、彼らの想定外の領域からも、浸食されようとしているように見える。(4回続き)=敬称略、続く

 ◇本稿は主として次の書籍や文献を参考にした。

 ▽学問・思想の自由のために(亀山直人・羽仁五郎・大内兵衛・坂田昌一・末川博・我妻栄著、羽仁五郎編)▽『坂田昌一 原子力をめぐる科学者の社会的責任』(樫本喜一編)▽井野瀬久美恵「軍事研究と日本のアカデミズム―日本学術会議は何を『反省』してきたのか」(『世界』2017 年2 月号)▽『「学者の森」の40年』(福島要一)▽『日本学術会議25年史』(日本学術会議)

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