松田優作が生み出した芸術的ノワール「野獣死すべし」は悪のファンタジー 1980年 10月4日 松田優作主演の角川映画「野獣死すべし」が劇場公開された日

角川映画「野獣死すべし」あまりにも意外な松田優作の姿

長身。研ぎ澄まされた美しい肢体。前傾姿勢で走るアクションはまるでネコ科の猛獣を思わせる。

それまで松田優作という俳優は常にタフガイを演じ続けてきた。『太陽にほえろ!』や『大都会 PARTⅡ』の刑事役。映画『暴力教室』(1976年)では腐敗した学園に立ち向かうはみ出し教師。凄腕の殺し屋を演じた『遊戯シリーズ』。そして『蘇える金狼』(1979年)では、野望を胸の内に秘め犯罪も辞さない男。皆、誰もが憧れる強い意思と肉体を持ったクールな男たちである。

そういった流れの中で期待して観に行った角川映画『野獣死すべし』(1980年)で松田優作が見せた姿は、あまりに意外なものだった。痩せ細った針金のような身体。目は虚ろで死体のように澱んでいる。その変わり果てた姿にショックを受けたのは私だけではなかったはずだ。

あの時、私は本気で「こんなの優作じゃない!まるで幽霊か死神じゃないか」そう思った。なぜ上下4本の奥歯を抜き、過酷な減量(10キロ以上と言われている)までして死神のような姿を作り上げてきたのか、当時は全く理解することが出来なかった。

主人公・伊達邦彦の心象風景を表すクラシックの名曲たち

松田優作演じる伊達邦彦は通信社のカメラマン。レバノン、インドシナ、ウガンダなど世界中の戦場を渡り歩いてきた。そこは弱肉強食の世界。弱ければ死はすぐに訪れる。子供であろうと女であろうと犯され殺される。略奪が日常化した地獄のような日々を送り、伊達は人であることをやめ、生き残るために獣となった。生きるために殺すことを知り、自分自身が狩られる側から狩る側となり、人を殺すことに喜び(快楽)さえ感じるようになる。

その後、彼は帰国し銀行やカジノを襲い金を奪うことを繰り返す。金がそこにあれば奪う。そう、彼にとって略奪とはノドがカラカラになり水を欲するのと一緒なのである。さらに言えば、腹が減ればメシを食うように平気で人を殺す。ただし、一流大学出の知的なエリート… 足が付くような下手な真似はしない。確実な狩りがモットーだ。

そんな伊達が、唯一人間らしい感情をみせるのが、クラシック音楽を聴くときなのである。冷徹で死神のような男がショパンの「ピアノ協奏曲 第1番 第1楽章 ホ短調」をコンサート会場で聴きながら、感動のあまり涙を流すシーンは印象的だ。自室でレコードに針を落とし、ショスタコーヴィチの「交響曲(第5番 第1楽章 ニ短調」に聴き入りながら銃を構えるシーンもそうだ。

伊達は夢想しながら、ゆっくりと呟く。「ヒュン、ヒュン、ヒュン」軍用ヘリコプターのローター音を口真似しているのかもしれない。たぶん戦場で見た風景を思い出しているのだろう。そして、自らこめかみに銃口を押し当て空撃ちし、死んだふりをしてみせる。このように、この作品ではクラシックの名曲が主人公の心象風景を表すために印象的に使われている。

難解すぎるラストシーン、残されたのは “孤独” という感情?

そして、劇場公開当時、難解すぎると話題になった有名なラストシーン。伊達はコンサート会場でショパンを聴いている内にいつの間にか眠ってしまう。目を覚ますと満員だったはずの会場に人は一人もおらず、自分だけが取り残されている。そこに静かにエンディングテーマが流れる。伊達は今までの事がすべて夢であったかのような、何とも言えない気分に襲われる。それは、彼の心にたった一つだけ残された “孤独” という感情だ。

社会という群れからただ一人離脱してしまった悪のエリート。その彼が無人の場内を見渡し、まるで誰かがそこにいるかのように気を引くような仕草をみせる。そして、突然「あッ!」と大きな奇声をあげるのだ。しかし、存在を誇示してみても、その声に応える生きた人間(理解者)は誰一人としていないのである。

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※2017年2月2日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 鎌倉屋 武士

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