コロナで次男が夏を奪われた元甲子園V左腕 生死の境を彷徨い芽生えた指導者への情熱

中日、広島で活躍した山田喜久夫さん【写真:福岡吉央】

次男も通う母校の東邦は生徒のコロナ感染で夏の独自大会を4回戦で辞退

高校時代に愛知の強豪・東邦でエースとして、1989年のセンバツで優勝し、中日、広島で左の中継ぎ投手として活躍した山田喜久夫さん。平成最初の甲子園優勝投手となった山田さんはプロ野球の世界でも10年間で222試合6勝8敗、防御率3.76の成績を残し、99年に現役を引退した。

あの甲子園の歓喜から31年。コロナ禍の今夏、東邦は生徒に感染者が出たため、愛知県の独自大会を4回戦で辞退。涙を流した3年生の中には、山田さんの次男である聖将(しょうま)くんの姿もあった。最後の夏を失われてしまった母校の後輩たちを、そして息子を、山田さんはどんな心境で見つめていたのか。母校への思いに迫った。

2019年のセンバツで平成最後の優勝を勝ち取った東邦。山田さんが2年だった88年に準優勝し、そして翌89年にも優勝していた東邦は、30年ぶりに春5度目栄冠を手にした・だが、その年の夏は愛知大会2回戦で姿を消していた。そして今年、コロナ禍で春季大会が中止となった後、夏に開催された県独自大会では、思わぬ形で最後を迎えることになった。

東邦は初戦で11-0で東海を下し、2回戦も中部大一に10-1で圧勝。3回戦も旭野を8-0で下し、順調に4回戦に駒を進めた。だが、7月26日に行われる予定だった半田との4回戦当日、野球部員ではない生徒の新型コロナウイルス感染が確認され、学校の判断で、大会への出場辞退を県高野連に申し出たのだ。

山田さんは次男を車に乗せ、球場に向かっている道中で、学校からの一報を耳にした。「球場には行かず、学校に戻ってくるよう連絡が来た。でも、学校に戻ったら試合開始にはもう間に合わない。これはもしや…と思った」。学校のグラウンドに着くと監督が涙を流していた。「案の定だった」。3年生の最後の夏は、1度も負けないまま、不完全燃焼で突然幕を閉じた。

次男と球場に向かう道中で学校からの一報を耳にし「もしや…と」

「簡単に『残念だったね』で終わる話ではない。『惜しかったね、出れなかったね』だけでは……。一生のことだから。子供たちに失礼すぎて言葉にできない」

山田家では現在大学1年生の長男、高校3年生の次男、高校1年生の三男と、息子は3人とも父の後を追い、東邦の野球部に入った。山田さんにとって3人は息子でもあり、野球部の後輩でもある。

「人間的に大きくなってほしいし、自分が汗と涙を流したグラウンドでやってくれるのは嬉しい」。だが、甲子園で頂点に立つ喜びも、地道な努力の大切さも味わってきた山田さんは、自分たちではどうすることもできない結果を受け入れるしかない次男に何と声をかけていいか分からず、ショックで言葉が出てこなかったという。

「『お疲れさん』とは言いましたよ。でも息子は、俺の前では泣いてなかったけど、選手たちみんなと一緒に泣いていた。これは、同じ野球人として軽々しく言えない。18歳はもう戻ってくることはない。世の中に出たらもっと厳しいことに遭遇するだろうけど、高校野球をやらせてあげて欲しかったなと思う。俺にとっても辛いし、今でも思い出すと泣けてくる」

東邦はその1か月後、同じ境遇となった県岐阜商と3年生の引退試合を開催。試合は2-11で敗れたが、スタンドからは温かい拍手が送られた。

「県岐阜商にはボロ負けしたけど、勝ち負けよりも、最後に試合を開き、区切りをつけてくれた関係者の人たちには本当に感謝しています」

そして今、必死に野球に励んできた後輩たちの姿を見て、山田さんの胸の中には、いずれは母校に戻り、後輩たちを指導したいという思いが芽生えてきているという。

芽生えた指導者への思い「元気になったら資格を回復して母校で野球を教えたい」

「学校から教えてくれと言われているんです。これまでは体が悪かったから無理だったけど、元気になったら資格を回復して母校で野球を教えたい。それが今の一番の目標ですね」

山田さんは99年に引退後、翌年から横浜、中日で打撃投手を計13年間務め、13年からは名古屋市内でわらび餅屋「喜来もち ろまん亭」を営む傍ら、週末は少年野球の指導を続けている。腎臓を悪くし、一時は生死を彷徨っていたが、昨秋、妹から腎臓を移植してもらい、一命を取り留めた。まだ通院は続いており、薬も欠かせない状況だが、今後、体の状態がさらに回復していけば、学生野球資格回復制度の研修を受け、東邦で指導者を務めるプランを思い描いている。

現在、名古屋市内で指導している少年野球チーム「侍」では勝敗にはこだわらず、子供たちに野球を好きになってもらうことを目的に指導をしている。教えるのは幼稚園の年中から小6まで。子供が楽しそうに野球をやる姿が見られることが何よりのやりがいだ。そして、現役時代の監督だった故・高木守道さんからの教えを守り、指導を続けている。

「高木さんからは『子供たちを教える時は、お前はできるけど、皆はできないものだと思って接しなさい』と言われました。『全然できないと思えば、こっちも頭にこない。まずは子供たちに野球を好きにさせなさい』と。だから、のびのびプレーできるように、エラーしてもその子を責めない。挨拶や礼儀ができない子には相手のことを思って厳しく言いますが、感情的に怒ることはしないようにしています」

その根底には、小学生らしく野球をして欲しいという思いがあるのだという。

少年野球チームでの指導は「勝とうと思ってやっていない」

「たかが少年野球。ボール捕れた、ヒット1本打てた、投げられなかった距離が投げられるようになった……それでいい。親御さんから『こんなに負けっぱなしだと山田喜久夫の名が廃りますよ』って言われたこともあったけど、重視しているのは人間教育。負けても得るものはたくさんある。勝とうと思ってやっていないから、勝ちを優先したければ、他に行ってくださいと言っています」

高校時代には阪口慶三監督(現・大垣日大監督)から、相手の気持ちになってプレーすることの大切さを学んだ。今度はそれを次世代に伝えていく番だ。

「プロは弱肉強食の世界だが、小学生は小学生らしく、高校生は高校生らしく野球をしないといけないことを教えてもらった。子供たちにも、相手への思いやりをもって相手の胸に投げなさい、心のある野球をしなさい、と言っています」

現役を引退して21年。「野球を辞めてから思うのは、どんなことにも挑戦していくことが大事だということ。人生何があるかわからないから、投げやりにならず、最後まで諦めちゃいけない。失敗したって若いうちは取り返しがつく。失敗を怖がらず、挑戦し続けることが大事」と話す山田さん。49歳となった今も、その思いは変わらない。阪口監督の教え、高木監督の教えを胸に、いつか後輩たちを指導する日を夢見て、まずは体の回復に日々努めている。(福岡吉央 / Yoshiteru Fukuoka)

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