「助けてほしいから…」 てんかんの30代女性と父の物語

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若菜さんが友、クー太朗の一瞬を描き留めた「えっ」
若菜さんが阿蘇移住5年目に描いた自画像「28歳の朝に」。以来誕生日ごとにわが顔を描く

 熊本県阿蘇市で暮らす田川若菜さん(33)は、てんかんによると疑われる症状と闘いながら絵を描き続けている。父親で元新聞記者の田川憲一さん(70)=阿蘇市=に、若菜さんとの日々をつづってもらう。若菜さんの体に変調が起こったのは生後3か月だったー。(熊本日日新聞文化面連載「伏した靴下と娘と私」より)

 

 次女若菜が生まれたのは33年前の1月、福岡県内で抗争を続ける暴力団への摘発の朝だった。二つの組織が、1カ月足らずの間に約50件もの拳銃発砲を繰り返し、中学生が重傷を負う巻き添え事件まで起きた。県警はその翌朝十数カ所を捜索、組員多数を連行した。事件担当記者だった私は現場で取材中、娘の誕生を知った。

 娘は胃の内容物を吐き、こども病院の新生児集中治療室に転送された。保育器の小さな命をTVモニターでしか見られない日が1カ月。彼女の人生の始まりだった。

 抗争の捜査は、米海軍艦船乗組員らによるフィリピン-日本間の拳銃大量密輸、巨額の米財務省発行小切手変造・密輸事件の全容解明に迫り、同省の捜査機関も福岡入りした。私は産後の妻と次女を顧みず連日深夜に帰宅、勤続10年休暇を使いフィリピンへ取材に行った。

 そんな日々の中、若菜の体に変調が起きた。産後3カ月目、入浴しシャワーをかけてやった時、全身けいれん発作が起きた。その後も玄関のチャイム音などに反応して発作が起き、救急車のお世話になった。「幼児性のけいれん。成長したら消えるでしょう」との医師の言葉とは裏腹に発作は頻発、沖縄で暮らした中2の時、てんかんと診断された。

 翌年からけいれんに代わって現れたのが執拗[しつよう]な幻聴や興奮などの精神症状だ。絶叫し号泣する姿は凄[すさ]まじく、突発的行動で自分の命を何度危険にさらしたことか。ある抗てんかん薬の副作用が疑われ、静岡てんかん・神経医療センターに半年入院した。

 音楽大や料理専門学校進学の夢は断念し、親との退屈な暮らし。興奮した若菜が私を拳で殴り、蹴り、噛[か]み付くこともあった。私も尻や頬を叩[たた]き返し、頬をひねり上げた。夢想もしなかった末娘との怒声の応酬。天真爛漫[てんしんらんまん]な子をここまで追い込んだのは何か。医師を訪ね歩き、医学書を読み、お祓[はら]いも受けた。将来が見えない中、必死で出口を探した。

 絵を猛烈に描くようになったのは2010年、私の単身赴任先の阿蘇で、妻と3人で暮らし始めてからだ。友人のいない寂しさを紛らしてやろうと飼い始めたミニウサギの雌、「クー太朗」が若菜になつき、自分の義務であるかのように毎日、若菜の顔を舐[な]めた。ピアノを弾き始めると、演奏椅子の真下に座り、両耳をピンと立てて聴き入った。若菜も、踊ったり仲間と笑い合ったりとさまざまな姿のクー太朗を描いた。

 タイの人気イラストレーターで産山村とのヒゴタイ交流の元交換留学生、リンナ・カラーヌワットさんのひと言が転機になった。「線にためらいがない。動物に立体感がある。初心者と思えない」と褒めてくれた。自然保護活動家の男性も「ピカソも何千枚と描き腕を磨いた。もっと描いて」と励まし、個展を開く時にと熊本市にある老舗の額縁店を教えてくれた。私は絵で自立させてやろう、と腹を決め、社を辞めた。

 2、3年前、1円玉ほどの穴が開いた私の靴下や下着にピンクや緑の派手な継[つぎ]あてがしてあるのに気づいた。いたずらを、と思ったが違った。若菜が早起きし、畳んだ洗濯物から私の物を選び、人形作りのフェルト布で繕ってくれたらしい。「なぜ伏[ふせ]してくれるのか」と聞くと「助けてほしいから」と若菜。「誰が誰を?」。「父さんが若菜を」。「どんな時に?」。「ブルーになった時」が答えだった。震えた声と涙目が切迫したものを伝えていた。

 ◇たがわ・けんいち 1950年、熊本市生まれ。北九州市立大文学部卒。読売新聞西部本社の記者として福岡総局、社会部、那覇支局などを経て、2010年に阿蘇通信部へ。3年間の勤務を経て退職し、次女若菜さんの絵画制作の裏方として個展「私のまなざし・阿蘇谷にて」を3回開催。阿蘇市在住。

 ◇たがわ・わかな 1987年、福岡市生まれ。神村学園高音楽科(ピアノ専攻)卒。出生直後からけいれん発作に悩まされ、中2の時にてんかんと診断される。阿蘇での暮らしの中で、絵を描くことに目覚め、フェルト人形も作る。「てんかんをめぐるアート展」にも出品。