雲仙・普賢岳噴火30年 当時の記録残して教訓に 書物や石碑の重要性訴え 元九州大島原地震火山観測所長・太田さん

「石碑の建立などを通し将来の災害に備えるべき」と訴える太田さん=島原市新山2丁目、九州大地震火山観測研究センター

 44人の犠牲者を出し、終息宣言まで5年半に及んだ長崎県、雲仙・普賢岳噴火災害。1990年11月の普賢岳噴火から17日で30年となる。東日本大震災や熊本地震など大規模災害が頻発する近年、日本列島は地震や火山の活発期に入ったともいわれる。九州大島原地震火山観測所(現九州大地震火山観測研究センター)所長として観測の中心的役割を果たした同大名誉教授、太田一也さん(85)。「噴火を経験した世代が当時の記録を残さなければならない。被災した場所に石碑を建てるなどの伝承で将来の災害に備えてほしい」と訴えた。
 午前6時半、けたたましく自宅の電話が鳴り響き、受話器を取ると観測所にいる助手から「激しい連続微動が発生中です」という連絡を受けた、と198年ぶりに普賢岳が噴煙を上げたあの日を回想する。
 普賢岳北麓地震観測点の記録計の針が振り切れ、インクペン書きの記録紙が真っ黒になっている切迫した状況にあった観測所に到着したのは同7時2分。連続微動の開始は同3時35分で、5時半ごろまで特に強かったといい、助手の「もうどこかで煙が上がっているかも」に対し「そうかもしれん」と相づちを打った当時のやり取りを振り返る。
 火山学が専門の太田さんは67年、九大助手として観測所に着任。教授になって起きた普賢岳噴火では、自衛隊のヘリコプターなどで上空観測を続け、火砕流が流下する状況などの情報を関係各所に伝えた。
 雲仙火山のホームドクターとして大きな責任を担った日々。「地元で観察する研究者の義務。当たり前の行動だった」。長年の知見を踏まえて提供した助言や情報は、行政が噴火災害に伴う避難勧告や警戒区域の設定、解除などを判断する際のよりどころとなった。
 30年の月日が流れ、住民の間にも記憶の風化が進む。災害対応の検証や将来への教訓に生かしてもらおうと、回想録を昨年刊行。噴火に直面した緊迫の場面や、43人が犠牲となった91年6月3日の大火砕流の夜、捜索のため被災現場に入ろうとする自衛隊を必死で阻止したエピソードなどをつづっている。
 「不謹慎かもしれないが、200年ぶりの噴火に遭遇できたのは研究者冥利(みょうり)に尽きる。(自身の著書や資料が)真実を記録として残し、将来の役に立つよう願う」。現在は、地形や地質、雲仙火山の有史前からの生い立ちを含め記した84年刊行の自著「雲仙火山」に、平成噴火を盛り込む改訂作業も進めている。
 100年以上前に書かれた雲仙火山の研究書をバイブルとして自身が学んだように、「それに匹敵するものを書き残したい」と未曾有の噴火災害と向き合った経験を次世代に伝え続ける決意は固い。


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