参戦促した手紙の後悔今も消えず…「慰霊の日近づくと起き上がれなくなる」 13歳の沖縄戦体験つづる

 【うるま】「私は、人間を狂気にする戦争を憎みます」―。医療法人・和泉会の介護老人保健施設「いずみ苑」苑長でうるま市に住む安田未知子さん(89)が、このほど「13歳の少女が見た沖縄戦 学徒出陣、生き残りの私が語る真実」を再刊した。九死に一生を得た壮絶な戦争体験、戦後は命と平和の尊さを伝える教職にささげた足跡をつづった鎮魂の書だ。

 沖縄出身の両親の間に東京で生まれた安田さんは8歳の時に家族で沖縄に戻った。1944年春、13歳でひめゆり学徒隊として多くの戦死者を出した県立第一高等女学校に入学した。その半年後、那覇市の9割が焼失したといわれる「10.10空襲」に巻き込まれる。ある日突然、第32軍の牛島満司令官の「伝令役」に指名された。牛島司令官と言葉を交わし、避難命令を受けた情景は同司令官の一端を知る証言記録とも言える。

 戦中、死を当たり前、誇りとする皇民化教育や、理不尽な日本兵の行状、米軍の激しい攻撃の中を逃げ惑い、人が次々と死んでいく光景、捕虜生活など、幼い少女の心を押しつぶすような過酷な体験をした。

 戦後、沖縄初の女性英語教員として教員免許を取得、定年まで43年間教職に就いた。「戦前の教育は自分で考え、自分の意思で行動することが許されなかった。だから、絶対子どもたちのための教師になると誓った」と振り返った。

 安田さんが悔恨の念として引きずっていることがある。校長に命令され、本土の師範学校に進学したかつての上級生42人に「国賊と呼ばれないために沖縄に帰って戦争に参加してください」と、署名入りで手紙を送ったこと。そのほとんどが沖縄に戻り、結果的にひめゆり学徒隊として動員され、犠牲になったという。「手紙を書かなければよかった、との思い、生きていることが苦しいのです」と自身を責め続けている。

 同書の発刊は戦後70年の2015年6月。「慰霊の日が近づくと手紙のことを考えて起き上がれなくなります」と悲痛な思いをつづった。現在は苑長として、戦争をくぐり抜けてきた同世代に寄り添い、心の安らぎを得ている。

 戦後75年の節目に再刊したのは「人が人でなくなるのが戦争。日本が再び戦争への道を歩き始めているように思えてならない」との危惧からだ。日本の未来が平和であるよう祈りのメッセージが込められている。(岸本健通信員)

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