邦楽ユーロビートの先駆け! 荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」の真実 1985年 11月21日 荻野目洋子のシングル「ダンシング・ヒーロー」がリリースされた日

邦楽ユーロビートの先駆け、荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」

2017年、大阪府立登美丘高等学校のダンス部による「バブリーダンス」が一世を風靡する。YouTubeにアップされた動画は驚異的な再生回数を記録し、ワイドショーなどでも大々的に取り上げられることになる。

派手な原色のボディコンスーツにソバージュヘア。昭和の残像を、バブルの象徴をコミカルに、そしてマキシマムな熱量で踊るその姿は、懐かしいという一言では括れまい。むしろ現代を生きる高校生たちのひたむきさは、称賛に値するものであった。

ここで使われた楽曲が、荻野目洋子最大のヒットとなった「ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)」であった。1985年の11月21日にリリースされたこの楽曲は、その後続々とリリースされるアイドルたちが歌う、いわゆる “邦楽ユーロビート” の先駆けであったが、僕自身の感触だとバブルとは一線を画し、テレビ、ラジオ、雑誌など、マスコミが全く見向きもしなかったストリートカルチャーに、この曲の根っこがあったと思う。

1985年といえば、この年の2月に風営法が大幅改正され、ディスコの営業時間が午前0時までとなった。これに伴い営業時間は、最終的に土日に限り昼の12時まで繰り上がった。そう。新宿、渋谷のディスコが高校生のパラダイスとなった時期である。

フロアのキラーチューン、アンジー・ゴールド「素敵なハイエナジーボーイ」

この時期に新宿、渋谷のディスコでキラーチューンとなっていたのが、「ダンシング・ヒーロー」の原曲、英国女性シンガー、アンジー・ゴールドの歌う「素敵なハイエナジーボーイ(Eat You Up)」だった。

邦題にハイエナジーとついていることからも分かるが、この頃、ユーロビートという言葉はあまり浸透していなかった。哀愁のあるメロディに電子楽器を多用したスペーシーかつ高揚感のあるアレンジ、ディスコのフロアに煌めくミラーボールのごとく人々を魅了するこのようなダンスミュージックは “ハイエナジー” と呼ばれていた。

つまり、荻野目洋子がこの楽曲をリリースした時は、誰もがバブリーなユーロビートという印象は持っていなかったはずである。まさしく、僕らだけしか知らない歌舞伎町ディスコのヒットナンバーの昇華であり、ストリートカルチャーがお茶の間を席巻したというなんとも誇らしい印象だったことを覚えている。

長山洋子、石井明美、森川由加里らがカヴァーしたディスコヒット

「ダンシング・ヒーロー」のビッグヒットをきっかけに、80年代後半、冬の時代を耐えしのいでいたアイドルや女性シンガーたちが続々とディスコヒットをカヴァーしていくようになる。

40万枚を超える大ヒットを記録した長山洋子のバナナラマカヴァー「ヴィーナス」は、後に演歌歌手として人気を持つ彼女が “自らの歌手人生においても転換期となった思い入れの深い一曲” と述懐するエポックメイキングなヒットとして人々の心に刻まれている。

また、翌年、TVドラマ『男女七人夏物語』の主題歌にもなった石井明美が歌う「CHA- CHA- CHA」(原曲:フィンツィ・コンティー二)や翌年の同シリーズ『男女七人秋物語』の主題歌となった森川由加里の「SHOW ME」(原曲:カバー・ガールズ)がヒットチャートを賑わすようになる頃、やっと世間はバブルを意識していったように思える。それは、「ダンシング・ヒーロー」のヒットから2年が経過した1987年の出来事だった。

ユーロビートの浸透は、Wink「愛が止まらない」の大ヒットから?

同じ時期、真弓倫子によりバナナラマのカヴァー「アイ・ハード・ア・ルーマー」や山本理沙の「キープ・ミー・ハンギング・オン」など、ヒットには恵まれなかったが綿密なアレンジが施されたダンスチューンの佳曲がリリースされていった。そんな彼女たちの残した曲が礎となって、Winkの登場と、船山基紀アレンジによる数々のユーロビートカヴァーのヒットに繋がっていくのだった。

思うに、1988年11月16日にリリースされた彼女たちの初のビッグヒット「愛が止まらない~Turn it Into Love~」あたりから、ユーロビートという言葉が世間に浸透してきたのではないだろうか。

そして、Winkがヒットを連発して少し経った1991年、巨大ディスコ、ジュリアナ東京が芝浦ウオーターフロントにオープンする。バブル、ボディコン、ユーロビート、お立ち台… といったワードが一番しっくりくる時代。荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」から6年後の出来事である。

一方その頃、高校生たちのパラダイスだった歌舞伎町のディスコは軒並み閉店し、ストリートの主軸はディスコからクラブへと移行していった。

80年代、1,000円ちょっとで入場できるフリーフードの歌舞伎町のディスコでお腹を満たし、ダンスに明け暮れていた少年少女たち。彼らが、バブルの象徴とも言えるジュリアナ東京の煌めくミラーボールの下で陶酔していたかどうかは定かではない。

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カタリベ: 本田隆

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