向陽寮の足跡 戦争孤児の居場所・4 【理解】地域の子どもとして

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地域にも支えられ、伸び伸びと育った(写真はイメージ)

 「嫌だった。なんでこんな所に入らなければいけないんだと」
 幼いころに両親を病で失い、長崎市戸町の伯母に預けられていた坂本大八(83)=同市琴海村松町=は当時の記憶を呼び起こした。食糧のない時代。終戦を迎え、伯母の息子が兵役から戻り、坂本の存在は煙たがられた。
 1948年2月に向陽寮が開設。その年の6月、伯母から何の説明もないまま、預けられた。中にいたのは似たような境遇の子どもばかり。良いことも悪いことも一緒になってやった。
 米国の救援物資もあって3食提供される恵まれた環境だったが、腹は常に減っていた。寮にたどり着いた子どもたちは悪知恵を出し合い、周辺の軒先に掛かる干し柿を取ったり、イモ釜をあさったり。ただ、盗みがばれると「お母さん」である寮長に大目玉を食らった。遅い時間でも一緒に出向き、平謝り。そんな「お母さん」の尽力もあり、次第に地域に理解されていった。
 地域の自治会長だった林熊市(故人)の長女、馬場誠子(77)=同市西北町=は「(開設当初に)寮長先生がよく父の所に相談に来ていた」と懐かしむ。寮の子どもたちは「地域の子ども」として受け入れられ、大人がよく声を掛けていた記憶も残っている。寮のグラウンドで開いていた地域の運動会もにぎやかな思い出の一ページだ。
 寮の子どもたちは年齢に応じ、市立西浦上小滑石分校(現滑石小)、西浦上小、中に通った。寮生同士は団結力があり、けんかも強く、いじめられたりすることはなかったという。
 それでも、周りに寮生だと知られたくない気持ちもあった。一時期、大半の寮生はあてがわれた米国製のジーパンを着用。坂本は通学路脇の麦畑で体操ズボンにはき替え、登校した。元寮生の富永政弘(79)=西彼長与町=もジーパンを見ると「引け目を感じていた記憶がよみがえる」。だから今もジーパンははかないと話した。
 地域にも支えられ、伸び伸びと元気に育った子どもたち。だが寮を出た後に厳しい現実と向き合うことになる。坂本は言う。「施設出身者は常に人生にハンディが付いて回った」