鷹島海底遺跡調査40年 発見から保存、魅力発信へ 元寇の遺物4000点 沈没船引き揚げ期待

潜水による発掘調査風景=2015年8月、松浦市鷹島沖(市教委提供)

 長崎県松浦市鷹島町南岸の鷹島海底遺跡で、蒙古襲来(元寇)に関する調査が始まって今年で40年を迎えた。これまでに元軍の沈没船2隻をはじめ、刀剣などの武器や武具、陶磁器など約4千点の遺物が見つかっている。40年の歩みを振り返り、今後の展開や課題を探った。

鷹島海底遺跡の歩み

 国内には約46万9千カ所の遺跡があるが、水中、海中にある遺跡はわずか約400カ所。その中で継続的に調査、研究が行われているのは鷹島海底遺跡だけだ。
 同遺跡は鎌倉時代の1274(文永11)年の「文永の役」、81(弘安4)年の「弘安の役」の2度にわたり、元軍が九州北部沿岸地域に来襲した古戦場跡。「弘安の役」では鷹島沖で4400隻、総勢14万人という元軍の大船団が暴雨風で壊滅したとされる。古くから地元の漁師によって、つぼなどの陶磁器類、刀剣やいかり石などが海底から引き揚げられていた。
 本格的な水中考古学調査が始まったのは1980年から。国の補助事業で3カ年調査が行われた結果、鷹島南部の床浪港と神崎港周辺で鎌倉時代の陶磁器などが出土。併せて実施された地元住民の採集品の調査では、元の公用文字、パスパ文字で記された「管軍総把印」が神崎港内で発見されていたことも分かった。

 この調査に基づき、81年7月には鷹島南岸東の干上鼻から西の雷岬までの約7キロ、陸地との境界線から沖合200メートルの範囲約150万平方メートルの海域が「鷹島海底遺跡」として周知されることになった。
 遺跡内の港湾施設を改修する際には、周辺海域で緊急発掘調査を実施。83年度から3度にわたる床浪港改修工事に伴う調査では、元寇に関する遺物のほかに約8400年前の縄文土器も出土した。
 94、95年度の神崎港改修に伴う調査では、多くの陶磁器類と共に、木製いかり4門を発見。2000年度から02年度の調査では、鎌倉時代の絵巻物「蒙古襲来絵詞(えことば)」に描かれている元軍の武器「てつはう」など、数多くの遺物が見つかった。

海底から出土した元軍の武器「てつはう」

 06年からは琉球大の池田榮史(よしふみ)教授(65)を中心とした学術調査がスタート。11年10月に、船の構造が分かる竜骨と外板が残る船体(鷹島1号沈没船)が確認され、一躍注目を集めた。12年3月には、鷹島海底遺跡の一部約38万4千平方メートルが国史跡「鷹島神崎遺跡」として指定された。海底遺跡の国史跡指定は初めてだった。
 さらに15年7月には国史跡の東側、水深約15メートルから1号船より船体の構造が残った2隻目の沈没船(鷹島2号沈没船)が確認され、将来的な引き揚げにも期待が膨らんだ。
 出土した遺物の一部は鷹島にある市立埋蔵文化財センターで展示。水中にある遺物は直接見ることができないため、復元模型を展示したり、VR(仮想現実)などによる疑似体験コーナーを設けたりして元寇の歴史や遺跡の魅力を発信している。
 市は17年4月、同センター内に「水中考古学研究センター」を設置。引き揚げた木製遺物の保存処理を大幅に短縮できる最新技術を導入するなど、水中考古学の拠点化も進んでいる。
 今月8日、調査開始から40年を記念した「元寇サミット」が同市で開かれた。元寇にゆかりのある対馬、壱岐、そして松浦の3市長が集い、連携して元寇の歴史を生かした地域づくりや交流促進に取り組むことを高らかに宣言した。
 今後も遺跡の調査は継続されるが、来年度は2013年に国史跡の外側で発見された大型木製いかりの引き揚げに着手する計画。松浦市教委文化財課の内野義課長は「将来的な元船引き揚げに向けたターニングポイントになる。今後は元寇の歴史や遺物を活用していく方向に舵を取る」としている。


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