国際テロの「魔女」逮捕、20年目の真実

刑期満了で2022年に出所へ

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 激動の20世紀最後の年となる2000年11月8日、大阪府高槻市の路上で1人の女が逮捕された。空港での銃乱射やハイジャックなど、1970年代に数々の国際テロを起こして世界を震え上がらせた「日本赤軍」のリーダーで、「魔女」とも呼ばれた重信房子(75)だった。逮捕から20年。執念で魔女を追い詰めた捜査員たちは今、何を思うのか。2022年に迫った刑期満了を前に、支援者らはどのような気持ちで出所を待つのか。(共同通信=杉山修一郎)

JR東京駅に到着した新幹線の車内で、報道陣に手を振る重信房子=2000年11月8日

 ▽氏名不詳の女

 「一体誰だ」。2000年夏、大阪市西成区の住宅街。日本赤軍関係者のアジトとみられるマンション一室を監視していた捜査員の目が、1人の中年の女にくぎ付けになった。大阪府警は国内にいる関係者の顔と名前を全て把握していたが、該当者はいない。「氏名不詳の女」の素性を明らかにするため、徹底した尾行が始まった。

 10月ごろ、日本赤軍の活動から遠ざかっていたはずの男が、兵庫県芦屋市の駅で女を送り迎えする姿を確認した。

 日本赤軍との関与を復活させ、さらに送り迎えまでさせる大物―。「まさか重信か」「日本に戻っていたのか」。捜査員の間に動揺が広がった。まぶたに焼き付けていたのは若い頃の写真。目の前の女に、その面影はなかった。

重信房子が潜伏していた大阪市西成区内のマンション=2000年11月

 ▽現場の意地

 府警は態勢を組み、逮捕に備えた。マスコミに漏れないよう、情報共有は公安3課を中心とする精鋭数人と警察庁の一部の人間に限った。

 結果を急ぐ警察庁幹部からは「海外に飛ばれたら一巻の終わりだ。職務質問して任意同行しろ。革命家の自負から『自分は重信だ』と認めるはずだ」と指示が飛んだ。しかし、府警は現場の意地で激しく抵抗した。「黙秘されたらどうするんですか。物証を固めて逮捕します」

 捜査員らは、ほぼ24時間態勢で監視を続け、女が出したごみの空き缶から指紋採取に成功する。元捜査員は「見失うわけにはいかないが、深追いして気付かれたら終わり。常に極限の判断が求められていた」と話す。こうして11月8日未明、指紋の一致が判明した。

 ▽逮捕に歓声と拍手

 同日午前、大阪府高槻市のホテルから出てきたところを逮捕することが決まった。オランダのフランス大使館が武装占拠された、1974年のハーグ事件に関与した容疑だった。府警警備部長として捜査を指揮したのは、後に警視総監を務める高橋清孝(63)。朝から公安3課幹部と共に、現場の報告を待った。

重信房子の逮捕当時を振り返る高橋清孝・元大阪府警警備部長=20年9月28日、東京都千代田区で撮影

 だがチェックアウトの時間を過ぎても女は現れなかった。周囲で息を潜める捜査員の間に重苦しい空気が漂う。「一分一秒がこんなに長く感じたことはなかった」と元捜査員。

 ようやく姿を見せたのは午前10時半ごろ。捜査員が近づき「奥平(おくだいら)か」と偽装結婚後の姓で問い掛けると、女は「うん」とうなずいた。偽造旅券を使用して入国していた。

 逮捕の一報を受け、高橋はすぐに会議室に駆け込んだ。府警本部長や各部長が定例の会議中だった。居並ぶ幹部を前に「日本赤軍のリーダー、重信房子を逮捕しました」と報告すると「おーっ」という歓声が上がり拍手が起きた。捜査員の執念の結果だった。重信は逮捕後、日本赤軍の解散を表明。裁判ではハーグ事件に関して無罪を主張したが、懲役20年の判決が確定した。一方で現在も7人のメンバーが国際手配されている。

 ▽魔法の人心掌握術

 そもそも、重信とはどんな人物なのか。

 「長い黒髪、パンタロン姿の洗練されたファッション。熱を込めて革命の意義を語ると多くの人が共感し、資金などの提供を惜しまなかった。魔法のような人心掌握術から『魔女』と呼ばれるようになり、求心力は急速に高まっていった」

 日本赤軍の前身組織で出会い、国内から中東へも支援を続けた70代の男性は、70年前後の重信の様子をこう懐かしむ。男性は69年ごろ、ベトナム反戦運動を展開した共産主義者同盟(ブント)が分裂し、赤軍派を結成する過程で重信と行動を共にするようになった。赤軍派は当時、兵たん部門を担当していた重信の集めた資金や物資に支えられていたという。

若い頃の重信房子(撮影年月日不明)

 ▽革命拠点を海外に

 しかし赤軍派の当時のリーダー森恒夫(73年東京拘置所で自殺)とは、闘争方針を巡り対立した。重信は革命拠点を海外に置く「国際根拠地論」を掲げ、71年に中東へ渡る。「日本から支えて革命を実現するのが自分の役割」と考えた男性は、国内にとどまった。

 森は同年、別の組織と共闘し「連合赤軍」を結成。メンバーらは離脱者2人のほか、群馬県榛名山などのアジトで仲間12人にリンチを加えるなどして、次々と死亡させた。逃亡した一部のメンバーは「あさま山荘」に立てこもって機動隊と銃撃戦を行い、世間に衝撃を与えた。

 加害者側にも殺された側にも赤軍派時代の仲間がいたという男性は「悲劇を止められたのではないかと後悔が頭を離れない。今でも死んだ仲間と一緒に川辺で談笑する夢を見る」と明かす。

 イスラエル・テルアビブ郊外の空港では72年、重信と共に中東に渡った男らが自動小銃を乱射し、約100人を死傷させる事件が起きた。「パレスチナ人のために命を懸けた行動だったが、結果的に罪もない市民が巻き込まれて亡くなったことは大いに反省しなくてはならない」と、男性は振り返る。

イスラエル・テルアビブの空港乱射事件の現場=1972年(UPI=共同)

 重信に共感する人の渡航を手助けするなど支援を続けた男性。時には組織の団結の重要性を訴える手紙も受け取った。90年代以降、社会主義が後退し中東への米国の影響力が大きくなると、重信らは徐々に活動の場を失っていった。

 「重信さんが逮捕された」。あの日、仲間から電話を受けるまで、帰国の事実すら知らなかったという。

 「革命という魔力に引き寄せられ、多くの仲間が志半ばで死んだ。出所後は法律の下で市民のために働いてほしい。激動の人生を歩んだ彼女だからこそ伝えられることがある」。重信への期待感は消えない。

 ▽獄中からの手紙

 重信は今、何を思うのか。共同通信は代理人弁護士に宛てた手紙の写し7枚を入手した。10月末に書かれ、小さな文字で縦書きにつづられている。

 東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)に服役中の重信受刑者は「もうすぐ(逮捕された)11月8日を迎えます。もう20年も前!」と率直な思いを吐露。「(逮捕の日のことを)今もよく思い出します」と記している。

 面会室にある透明の板の穴が新型コロナウイルス対策でふさがれたことにも触れ「(相手の声が)きちんと聞き取れる自信がありません。補聴器を着けても聞き取りにくいです」と、高齢で万全ではない健康状態への不安ものぞかせた。

 7月から民芸品を作る軽作業を始めたとして「出所までに2年を切っており、社会参加に向けて好奇心を持って迎えた」。しかし10月から、ボール紙の切れ端を指で繰り返しもみ、さらに5ミリ以下にちぎるという作業内容に変わると「指先がマヒし、ジンジンと痛みます。夜もジンジンしています」と訴え、「こうした懲役は許されない」と苦情を申し立てたという。

 手紙の末尾は「身体はゆったり過ごしてください。出所したら思い切り語り合いたい! コロナに気を付けて! 房子」と締めくくっている。

大阪で逮捕され新幹線で東京に移送された重信房子=2000年11月8日、JR東京駅

 ▽筆者に届いたメール

 直接会って話したいと考えた筆者は今年8月以降、重信に面会などを求める手紙を3通送ったが、返信はなかった。しかし10月、「重信氏の友人です」と名乗る80代の男性から1通のメールが届いた。転送された手紙で面会の申し込みを知り、連絡をくれたのだった。

 男性によると、重信はがんのため複数回手術をし、現在も定期的な精密検査が必要だが、容体は安定している。許された手紙の発送は月に5通のみで、面会も原則として親族や弁護士などに制限されている。

 メールには「(重信が)返信しなかったこと、できないことを小生から伝えてくれることを期待していると判断」したと記されていた。

 重信は自身の近況をごく近しい人に書面で送り、一部は支援者らが発行する季刊誌に掲載している。男性は赤軍派や日本赤軍のメンバーではないものの、明治大在学中から交流を続けてきた。面会したのは数年前が最後だが、手紙のやりとりは続けている。出所後に顔を合わせたら「僕も年だから会えないと思ったが、会えたね」と声を掛けるつもりだという。

 ▽担当捜査員の自負

 警備部長だった高橋は重信の逮捕後、08年の北海道・洞爺湖サミットの警備を道警本部長として指揮し、警察庁警備局長を経て15年8月から警視総監を務め、退職した。長年重信を追った捜査員の多くも既に退職している。20年前、府警公安3課の主な関心は、国内過激派の「中核派」や「革マル派」だった。両組織の実態把握や取り締まりに予算や人員が割かれ、日本赤軍担当は肩身の狭い思いをすることもあったという。

 「目先の成果がなくても、いつか社会のためになると信じて地道な捜査を何十年も続けた。だから逮捕できた」。高齢になった元捜査員の声には、20年を経てもなお自負に満ちた力強さがあった。(敬称略)