雲仙・普賢岳噴火30年 火口近くに駆け付けた元消防署員 坂本梓さん 学んで危険性共有を

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坂本さんが撮影した九十九島火口から噴煙を上げる普賢岳=1990年11月17日午前、普賢神社付近(坂本さん提供)

 44人の犠牲者を出し、終息宣言まで約5年半に及んだ雲仙・普賢岳噴火災害。1990年11月、198年ぶりに普賢岳が噴煙を上げて17日で30年になった。島原地域広域市町村圏組合消防本部の元消防職員、坂本梓さん(87)=島原市有明町=はあの日、現場確認のため噴煙を上げる普賢岳の火口近くまで駆け付けた。その後も、91年6月3日の大火砕流惨事、同9月15日の旧大野木場小焼失では、警戒活動や現場確認に従事するなど噴火災害を間近で見続けた数少ない1人。発生当時を振り返り、「災害は体験しないと分からない。だからこそ、用語や現象を学び危険性を共有することが大切」と訴える。
 噴火当日、島原消防署に現場責任者の当務隊長として勤務していた明け方、「雲仙岳で山火事」という119番通報が相次いだ。場所を調べると管外の雲仙区域。出動は見送りとなったが、午前8時ごろ、観測機関からの一報で噴火を確知した。
 「島原にも影響があるかもしれない。消防署員として現場を確認する必要がある」との思いもあり、非番となる同8時半を待ち、部下と2人で仁田峠に向かった。麓の深江町辺りで、晴れ渡った冬の空に立ち上る煙が見えた。
 仁田峠からは登山道に入り、1時間ほど歩いて山頂付近にあった当時の普賢神社に到着した。最初の噴火口となった二つの火口から立ち上る噴煙を間近で視認。約100メートル先には、地面が裂け白っぽい噴気とともに土砂が噴出する地獄跡火口が見下ろせた。恐る恐る近づくと「ジュクジュク」という音が聞こえ、硫黄の臭いも漂っていた。
 同神社から約200メートル先には九十九島火口。煙が真っすぐ縦に上がる様子に、「このままなら安中、深江方面が危ない」と普賢岳東側斜面に位置する火口の場所を見て感じた。現場に滞在した半時間、写真4、5枚と8~9分間のビデオを撮影。噴火後に入山が制限された山頂付近を記録した貴重な資料となった。
 下山後、「現場の映像を見たい」と鐘ケ江管一元島原市長から連絡を受け、ビデオを届けた。また、島原消防署長らに状況を報告。「もし噴火で(溶岩が)流れるなら安中地区」とも伝えた、と当日の慌ただしかった1日を振り返った。

「煙で人が焼けるとは」 火砕流の脅威 知る大切さ強調

 「写真や映像を撮ったことで市長や関係機関幹部が情報共有できた。だが今はもう見たくない」。坂本さんは噴火災害の大規模火砕流発生時、それぞれの現場で業務に従事し、被災地の惨状を目の当たりにし続けた心境を吐露する。

長年保管してきた写真を見詰め「用語や現象を学び危険を共有することが大切」と話す坂本さん=島原市有明町の自宅

 坂本さんは1991年4月、布津出張所(当時)に異動。43人が犠牲となった同6月3日の大火砕流惨事発生時には、報道陣が撮影ポイントにしていた島原市北上木場地区の「定点」付近で水無川の警戒活動に従事していた。大きな音を聞いた午後4時すぎ、自宅を心配して同地区に戻っていた住民数人をポンプ車に押し込み、迫る火砕流から深江側に間一髪で逃れた。
 「大野木場小まで来たら安心」。そう思ったのも束の間、ぼろぼろの服に足元ははだし、全身血だらけでひどいやけどを負った男性が島原側からやって来る姿が目に入った。すぐに救急を要請し搬送。後日、助かったと聞き安堵(あんど)したのを覚えている。「煙で人間が焼けるとは知らなかった。これは大変なことになった」と、この時が坂本さんが火砕流の脅威を目の当たりにした瞬間となった。
 同9月15日、坂本さんは常駐していた当時の深江町役場2階から流下する火砕流を見ていた。その場にいた消防団員の一人が「うちも燃えよる」とささやいたのを覚えている。「なんで燃えているのかとの思いもあったが、改めて火砕流が火だと感じたのはその時」と話す。
 夜明けとともに校舎が焼失した直後の旧大野木場小に出向くと、校庭や周辺の道路には、10センチほど灰が堆積。まだ燃えている家の前で、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす住民とおぼしき2、3人の姿もあった。「声を掛けることができなかった。火を消す手段がなく、ただ眺めるしかできず消防隊員として忸怩(じくじ)たる思いだった」と当時感じた悔しさをあらわにする。
 30年の時が流れ、当時を知らない世代が徐々に増えている。一方で、全国各地では未曾有の大規模災害が頻発。噴火災害を現場で体験し続けた坂本さんは「当時の対応を知り、災害の脅威を改めて認識してもらわないといけない」と強調した。