向陽寮の足跡 戦争孤児の居場所・6完 【不変】寄り添う思い脈々と

©株式会社長崎新聞社

子どもが委ねられる存在になってあげたい(写真はイメージ)

 1948年の国の調査によると、戦争孤児は全国で12万人を超えていた。路上で物乞いをし、闇市で盗みを働き、無賃乗車で浮浪する生活。長崎の街にも、親を失い、その日暮らしの子どもたちがあふれていた。
 当時、民間の孤児院など戦前からの施設はあったが、収容も食糧も追いついていなかったという。里子を受け入れる余裕がある家庭も少ない。そんな情勢下で設立された向陽寮。「子どもたちの居場所として果たした役割は大きい。(退寮後も)『帰る場所』として心の支えにもなっただろう」。児童福祉に詳しい長崎純心大教授、尾里育士(51)は、そう評した。
 2016年、改正児童福祉法に家庭同様の環境における養育の推進が明文化された。「安心感を持てる場所」「社会全体で育む」「(退所後も)長い関わりを」。社会的養護の理念にはそんな言葉が並ぶ。
 かつての向陽寮-。たどり着いた子どもたちは、家庭的な環境で安心感を手にし、地域にも支えられた。退寮後も「お母さん」として見守った寮長。ゼロからつくり上げたあの頃の生活は、現代の社会的養護が目指す形にも通じていた。
 連載が始まり、1通の手紙が届いた。話を聞くと、複数の寮生と小、中学の同級生だったという男性(73)は、寮生に対し「悪の面ばかりが思い出される」。気性が荒く「腫れ物に触るような感じ」で接していた、と。ただ、男性は年齢を重ね、入寮までの環境が彼らをそうさせたのだという思いに至ったとも言った。こうした負の側面もまた、時代に翻弄(ほんろう)された一つの現実だった。
 11月初旬、大村市の「光と緑の園 向陽寮」。現在は約60人の子どもが暮らしている。孤児が大半だった昔と異なり、入所理由の半分以上は親からの虐待だ。取り巻く環境は様変わりし、職員の対応も変わった。
 ほとんどの子どもには実親がいる。だから職員は「お母さん」「お父さん」にはならない。寮長の宮崎慶太(63)は「さまざまな理由で今は離れているが親は親。可能な限りは元の家族に戻してあげたい。ただ、簡単にいかないことも多いですが…」と現状を語った。
 時計の針が午後6時を回った。白飯やみそ汁、煮物などが並んだ食卓を子どもたちと部屋の担当職員が囲む。たわいない会話に、時々、「野菜も食べんば」と年上の子が下の子を注意する声も聞こえてくる。
 台所から様子を見ていた別の職員は言う。自分たちがやるべきことは「子どもに『普通の生活』をさせてあげること」。親と離れ、傷ついた子どもたちとたくさん話をし、委ねられる存在になってあげる。時代も社会も変わったが、子どもに寄り添う不変の思いは脈々と流れていた。(文中敬称略)

  =おわり=