ストーカーから命を守るには? 洋菓子店員殺害事件から考える、わたしたちにできること

友人からの花や手紙で囲まれた野口麻美さんの遺影=10月13日午後、長野県軽井沢町

 自分がもし、交際相手とトラブルになったら。身内や友人が、ストーカーや配偶者からの暴力におびえていたら。しばらくの間、相手が何も危害を加えてこなければ「放っておいても大丈夫」「時間が解決する」などと思うかもしれない。だが、それでは何の解決にもならない。

 東京都中野区のアパートで8月、洋菓子店店員野口麻美さん(38)が、元交際相手で別の洋菓子店店長の男(34)=直後に自殺=に殺害された事件。男の暴力やストーキングについて、警察は野口さんから相談を受けていたが、野口さんの申し出を受け、今年4月で対応を終えていた。ストーカー規制法施行から20年がたった今も、こうした事件は絶えない。被害はだれにでも起こり得る。人ごととは思えない。どうしたら最悪の事態を防ぐことができるのか、両親との対話を重ね、専門家の声も聞きながら考えてみた。(共同通信=渡具知萌絵)

 ▽インスタグラム投稿後の凶行

 「閉店のお知らせ。…私が元交際相手野口麻美から多大なる嫌がらせを受け…僕はどうしようもない憤りから彼女を許すことができず…人生に悔いはないです。本当にありがとう」

 8月30日朝、写真共有アプリ「インスタグラム」にこんな投稿がされた。アカウントは世田谷区のある洋菓子店。投稿を読んだ野口さんの弟は、ただならぬ文面に姉の身を案じた。この洋菓子店長は、姉のストーカーだったと聞いていたからだ。姉の自宅アパートに駆け付けると、姉は寝室の床で血を流して倒れていた。「もう助からないかもしれない」。

 電話を受けた両親は、長野県の自宅からすぐに東京へ向かった。男との関係に思い悩み、自殺を図ったのではないか―。両親はとっさにそう思った。だが、警察は刺殺事件と説明。2人は「何が何だかわからなくなった」。

 事件の概要は10月になって明らかにされた。警視庁野方署は殺人などの疑いで男を容疑者死亡のまま書類送検。送検容疑の詳細はこうだ。

 8月30日未明、脚立を使って野口さんの住宅のベランダに上がり無施錠の窓から侵入。包丁で頭や背中を刺して殺害した、としている。司法解剖の結果、野口さんは全身計23カ所を執拗に刺され、背中の傷が肺まで達していた。

野方警察署

 ▽ネットや週刊誌で騒がれて

 野方署によると、男は事件前、自分の友人や親に「(野口さんが)自分の悪口を言っているせいで店に客が来ない。許せない。殺してやる」と話していた。ただ、実際に悪口を言っていたという証言は存在しない。警察は、一方的に恨みを募らせて殺害したとみている。

 2人の間に何があったのか。取材を進めると、男が昨年8月、野口さんへの傷害容疑で書類送検され、罰金20万円の略式命令を受けていたことが判明した。

 野口さんは昨年5月、男の暴力について野方署に相談。署はその後毎月、野口さんに連絡を取って状況を確認していた。昨年11月には野口さんの勤務先に現れたため、近づかないよう注意していた。

 この事件はネット上で直後から騒がれ、野口さんと男の顔写真やプロフィル、勤務先の情報まで出回った。週刊誌も次々に「美人パティシエが『ストーカー化した元カレ』に刺殺されるまで」などと報じた。

 気持ちの整理がつかない状態でメディアスクラムに遭い、疲弊した野口さんの両親は当初、すべての取材を拒否した。

 私も、申し訳ないと思いながら代理人の弁護士を通じて取材を申し込んだ。が「そっとしておいてほしい」と告げられた。

 事件から1カ月以上たったある日、弁護士から「週刊誌に話してもいないことを書かれた。真実を伝えるため、両親が取材を受けると話している」と連絡があった。両親が暮らす長野県軽井沢町へ向かった。

家族や友人が撮影した野口麻美さんの写真と、野口さんが友人に宛てて書いた手紙

 ▽優しすぎるくらい優しかった娘

 父親の勝さん(72)と母親の和美さん(68)は、意外にも温かく出迎えてくれた。「娘の友人が作ってくれたんです」。そう言って、事件後に受け取ったというフォトアルバムを見せてくれた。友人の子どもをあやしたり、友人にネイルアートを施してあげたりと、笑顔の写真ばかり。「短い生涯だったけど、人の一生分の友達に出会ったんだ」。アルバムを見て、娘が周囲と支え合いながら生きてきたことを知った勝さんは、事件後初めて涙を流したという。

 両親によると、野口さんは東京・阿佐ケ谷生まれで1歳下の弟と2人きょうだい。小中学生の時はバレエを習い、高校では写真部に所属。大学では油絵を専攻した。

 サーフィンが趣味で、20代になると障害のある子ども向けのサーフィン教室にボランティアで参加した。国内外問わずに活動し、ライフワークにしていた。勝さんは「困っている人には必ず手を差し伸べる。優しすぎるくらい優しい性格だった」と振り返る。

 幼い頃から洋菓子作りが好きで、家族や友人が集まる際にはケーキやクッキーを焼いて振る舞った。大学卒業後、都内のキャンディー専門店に勤務。「洋菓子への探究心や行動力は人一倍」で、本場の味を学ぶために本店があるスペインも訪問。昨年からは渋谷区の有名店でマネジャーを任され、忙しく、充実した毎日を送っていた。周囲には「いつか自分のお店を持ちたい」と夢を語っていた。

 ▽男の暴力で破局

 野口さんと男が交際を始めたのは2016年。男はキャンディー店の同僚だった。両親も交際していることは聞いていた。野口さんや野口さんの出身校に対する悪口を言ったり、カッとなって従業員を怒鳴ったりするなど、気になることを野口さんから伝え聞き、当初から心配していたという。和美さんは「別れた方がいい」と伝えたが、野口さんは「感情の波があるけど、私のことを一番理解してくれる人だから」と答えていた。

 2人の関係は次第に変質していく。野口さんが男と距離を置こうとしていた17年には、男から「死ぬ死ぬ」「恨む恨む」と書き連ねたメールが届いた。「自分のために死んだら困る」と心配し、以前住んでいた阿佐ケ谷を管轄する杉並署に相談。杉並署は、男の父親に指導監督するよう求めていた。

 結局、男の暴力をきっかけに19年5月ごろ破局。しかしその後、野口さん宅を訪ねてきたり、「おまえの居場所は分かっている」と電話をかけてきたりと、男はストーカー化した。恐怖を感じた野口さんは、一時、弟の自宅や母親の実家に避難した。和美さんは「娘が警察に相談したことで、男は処分(略式命令)を受けることになった。それがきっかけで、娘への逆恨みが始まったのではないか」と語る。

 ▽「事実受け止めるしか」

 勝さんは事態を解決するため、民事訴訟を起こすことを以前から提案していた。だが娘は「慰謝料をもらう気持ちはない」と拒んだ。「片を付けなければと思う半面、一度は愛した人だからとジレンマを抱えていたのだろう」と推し量る。

 そして事件後、「無理にでも実家に連れ帰っていたら」「仕事を辞めさせていたら」と自分を責めた。それにしても男は一体、なぜ娘を殺さなければならなかったのか。疑問は山ほどあるが、自殺したため聞くこともできない。

 和美さんは事件が起きたとされる午前3時半すぎに目が覚めたり、勝さんは一人になると突然涙が出たり。2人の心には深い傷が残った。それでも少しずつ前を向こうとしている。「明るい性格だったから、私たちが泣いていたら悲しむ。知りたいことはたくさんあるが、事実を受け止めるしかない」

 ▽警察はリーダーシップを

 男がしていたことは明らかなドメスティックバイオレンス(DV)であり、ストーカー行為であった。殺人事件は、警察が対応を終えた後に起きた。その対応を検証しておきたい。

 野方署に取材すると、同署は野口さんが以前に相談していた杉並署への相談内容を把握していた。ただ、破局後も男から電話や訪問があったことは、野口さんから報告を受けていなかったという。野方署の幹部は「110番の取り扱いもなく、ストーカー規制法に基づく警告はできなかった。それに、本人から『もう大丈夫』と言われた後も対応を続けることは、難しい」と話した。

 野方署は身の安全を考えて転居も勧めたが、野口さんは一時的に避難した後、自宅に戻っていた。事件は転居していれば防げていたのかもしれない。ただ、仕事面や金銭的な事情から転居を思いとどまる人は他にも多いという。

 野口さんは警察に相談し、警察は署同士で情報共有して対応していた。転居こそしなかったものの一時避難もした。野口さんはその後、警察に「もう大丈夫」と伝えた。事件はその後に起きた。

「NPOヒューマニティ」の小早川明子理事長

 対策はなかったのか。ストーカー問題に取り組む「NPOヒューマニティ」(東京)の小早川明子理事長に話を聞いた。

 ―警察とのつながりを絶った野口さんの判断については。

 被害者の多くは相手を悪者にしたくないという心理が働いたり、やり過ごすことが安全な道と考えたりしてしまう。だが接触が長期間なくても、素人判断で安心してはいけない。

 ―警察の対応で重要なことは。

 危険が去っていない限り、警察はリーダーシップを取らなければならない。解決までの具体的な道筋を示した上で、自治体の男女共同参画センターなど、複数の相談窓口を紹介してほしい。相談先によっては被害防止のための安全確保や、加害者を医療機関につなげる方策も検討してもらえたかもしれない。専門家を巻き込みながら対策を十分に検討してほしい。

 ▽取材後記

 命が失われてから悔やんでも遅い。今回の事件の取材は「対処する勇気を持つこと」「警察以外の専門家にも相談すること」の重要性を教えてくれた。愛する人たちを悲しませないために、そして野口さんの命を無駄にしないために、私たち一人一人が、教訓を胸に刻まなければならない。心の底からそう感じた取材だった。

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