宇陀を駆けた人々(31)-織田信雄 篇3-

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■信雄(のぶかつ) 放浪の旅にでる
秀吉との関係が悪化してきた信雄は、当時秀吉と対立していた徳川家康と手を結び、1584(天正12)年に秀吉と戦をします(小牧・長久手の戦い)。戦いは、長期化し最終的には信雄と秀吉は講和を結びます。これは、信雄が秀吉に臣従する形で成立したものでした。
1590(天正18)年に秀吉の命令で信雄は、関東を治めていた北条氏攻めに参加します。北条氏降伏後、秀吉は、信雄に領地を愛知西部・三重から愛知東部・山梨・長野への領地替えを命令しますが、信雄はこれを拒否します。これに腹を立てた秀吉は、信雄から領土を没収し、信雄は秀吉から逃げるように全国を転々とします。
秀吉は、1592(文禄元)年に信雄を許し、大名として復帰させます。
秀吉が1598(慶長3)年に死去し、豊臣政権に揺らぎがではじめます。天下統一の奪取を狙っていた徳川家康と秀吉の家臣石田三成が1600(慶長5)年に関ヶ原で戦をします(関ヶ原の戦い)。この戦いにより家康が勝利し、天下人となります。この戦いで信雄は、息子の秀雄が石田方で戦に参加したため、領地を再び没収され大阪に住みました。
信雄は、家康と豊臣秀吉の子、秀頼が戦をすると、家康方につきます(大坂冬の陣)。これも家康の勝利となり、信雄は再び大名として復帰を許されます。このとき与えられた藩が宇陀松山藩(大宇陀)と小幡藩(現在の群馬県甘楽郡甘楽町(かんらぐんかんらまち))です。どちらにも行かず、余生を京都市内で過ごし、1630(寛永30)年に死去。お墓は室生寺などにあります。
信雄は、二度も領地を失いながらもその都度復帰し、後世に織田家の血筋を守った人物といえるのではないでしょうか。

文・北畠俊(文化財課)