黄金の6年間に2度飛んだ男、円広志の「夢想花」と「越冬つばめ」 1978年 11月21日 円広志のファーストシングル「夢想花」がリリースされた日

それだけじゃなかった大阪、地盤沈下していく西のメトロポリタン

落語の三題噺じゃないが、その昔、大阪は「タイガース」「お笑い」「粉もん」で語られるような、そんなシンプルな街ではなかった気がする。

例えば、1970年に開催された、戦後日本の最大のお祭り―― 大阪万博。「人類の進歩と調和」をテーマに、世界77ヶ国が参加して、明るく楽しい未来社会を垣間見せてくれた。その視点は世界と未来と平和を向いており、特段、“大阪っぽい” 演出は見当たらなかった。

小説の世界でも、僕の好きな『白い巨塔』(山崎豊子・著)や『青が散る』(宮本輝・著)といった作品は、著者が大阪出身のためか大阪が舞台だったけど、そこに描かれていたのは、医学界を舞台とした本格的な社会派小説だったり、テニスを題材とした瑞々しい青春小説だった。特段、作中にタイガースや粉もんを連想させるような描写はなかった。

それは、音楽の世界も同様だった。かつて70年代後半から80年代前半にかけて、関西出身のミュージシャンの楽曲がスポットライトを浴びた時代があった。河島英五の「酒と泪と男と女」、BOROの「大阪で生まれた女」、上田正樹の「悲しい色やね」等々――。それらは大阪の街を舞台にしていたものの、描かれていたのは普遍的な男女の話だった。コミックソングの出る幕などなく、大人のラブソングだった。

だが―― いつしか、大阪は長きに渡り地盤沈下していくのと反比例するように、冒頭に挙げた「タイガース」「お笑い」「粉もん」といったカラーの比重が増してきた。気がつけば、かつて東京と覇権を争った西のメトロポリタンは、今やすっかり三題噺が似合う下町(ダウンタウン)になった。

大阪で育った円広志、アマチュア時代に作った「夢想花」

さて、今回取り上げる楽曲は、まだ大阪が、そんな三題噺に染まる前の時代に作られたもの。時に1978年11月21日―― そう、今から42年前の今日、リリースされた円広志サンのシングル「夢想花」である。

 忘れてしまいたいことが
 今の私には多すぎる
 私の記憶の中には
 笑い顔は 遠い昔

円広志サン―― 生まれは高知だが、小学2年の時に父の転勤で大阪に移り、以後は大阪で育つ。音楽に目覚めたのは小学5年の時。映画『禁じられた遊び』を見て、主題曲「愛のロマンス」のギターの調べに魅せられ、アコースティックギターを手にする。中学になると寺内タケシやベンチャーズの影響でエレキギターに持ち替え、独学で曲作りも始める。大学時代はバッド・カンパニーのコピーバンドを結成、地元で人気を博すも、メンバーの就職でバンドは解散。ソロとして前途を模索していた時代に作った曲が――「夢想花」だった。

 いつの日にか あなたがくれた
 野の花が ノートにありました
 そして私は蝶になり
 夢の中へとんでゆくわ

時に1977年――。俗に、名曲は天から降ってくるというが、同曲はわずか15分ほどでできたという。ただ、タイトルに10日間ほど要したとか。デモテープを作って聴いてみると、我ながら売れそうな予感がする。

ポプコンと世界歌謡祭でグランプリ ♪ とんで とんで とんで

当時、円サンは曲作りの傍ら、食い扶持のためにコンサート警備のアルバイトもしていた。同年11月、「あんたのバラード」で世界歌謡祭のグランプリを獲った世良公則&ツイストが、大阪で凱旋ライブをやった際も、客席の最前列で殺到する女性ファンを抑えていた。まさか、この1年後、彼自身が世界歌謡祭でグランプリを獲るとも知らずに――。

運命の扉はある日突然、開かれる。その日、コンサートが終わり、メンバーたちを会場から無事に送り出して一息入れていた時、かつてバンド時代に知己を得たヤマハの関係者と偶然再会する。

「こんなところで何してるの」
「いや、ちょっと」
「最近は曲書いてないの」
「実は最近、いいのができまして」
「ほう、聴かせてよ」

早速、会社にテープを送ると、「ポプコンに出てみないか」との好返事。翌1978年、大会にエントリーすると、あれよあれよと地方予選を勝ち抜き、10月1日、つま恋の本選で見事グランプリに輝く。そして、その勢いのまま、11月12日に武道館で行われた世界歌謡祭にも出場し、ここでもグランプリ。晴れてシングルとしてリリースされる。

 とんで とんで とんで
 とんで とんで とんで
 とんで とんで とんで
 まわって まわって
 まわって まわる

心底悔しがった阿久悠、新しい才能が噴出したクロスオーバーの時代

そのサビを聴いた時、作詞家の阿久悠サンは「その手があったか」と、心底悔しがったという。実際には、本人が一息で歌い切れる「とんで」の回数の限界が9回だっただけのことであり、計算されたものではなかったのだが――。

発売されるや、「夢想花」はジワジワとチャートを上がり、翌1979年2月1日には『ザ・ベストテン』に10位で初登場。6週間ランクインを果たすなど、息の長いロングヒットとなる。累計80万枚を売上げた。

編曲はヤマハ繋がりで、巨匠・船山基紀サンである。一聴して分かるが、同曲は極めてシンプルなコード進行になっている。基本的にはAメロとサビしかない。それでも5分以上になる同曲を飽きずに聴けるのは、有名なサビのインパクトに加え、Aメロも類稀なる美しい旋律だからである。また、船山サンの作った前奏と間奏も、実に耳に心地よい。つまり、アタマからお尻まで、どこを切ってもメロディアスなのだ。

それにしても―― なぜ、こんな神曲が生まれたのか。
ある意味、時代が起こした奇跡かもしれない。リリースされた年を思い出してほしい。1978年だ。そう、「黄金の6年間」の起点である。黄金の6年間とは、東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代のこと。ジャンルを越えてクリエイターたちがクロスオーバーを始めた時代でもあり、新しい才能が噴出した。

それに当てはめると、元々ロック志向の強かった円サンが、まるで歌謡曲のような同曲を作ったのが、1つ目の奇跡。彼の背中をクロスオーバーへと後押したのは、時代の空気感だったのかもしれない。もう1つは、まるで大阪らしくない普遍的な歌詞。これもまた、無意識のうちに脱大阪へと、時代が舵を切らせたのだろう。結果、幅広い年代に愛されるロングヒットとなった。

森昌子の「越冬つばめ」作曲者の篠原義彦って実は?

だが、幸せは長くは続かない。「夢想花」の後、円広志サンは長らくスランプに悩まされる。コンスタントにリリースを続けるも、どれもヒットには至らず。やがて自信を失くし、東京へ移していた拠点を、再び大阪に戻した。そんなある日―― 東京のレコード会社から円サンに、森昌子サンに曲を書いてほしいと依頼が来る。時に1983年の初頭―― 奇しくも、黄金の6年間のラストイヤーだった。

当時は、森進一サンに大瀧詠一御大が「冬のリヴィエラ」を提供したりと、まだクロスオーバーが続いていた。その背景もあり、円サンは曲を書き下ろすことを快諾する。そして完成したのが、森昌子サン41枚目のシングル「越冬つばめ」だった。リリースは1983年8月21日。作曲者名の篠原義彦は、円広志サンの本名である。その年、「越冬つばめ」は日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞する。

 ヒュルリ ヒュルリララ
 ついておいでと 啼いてます
 ヒュルリ ヒュルリララ
 ききわけのない 女です

「夢想花」と「越冬つばめ」―― 黄金の6年間で、円広志サンは2度 “飛んだ” ことになる。

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カタリベ: 指南役

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