【社会人野球】「親父の遺言みたいなもの」プロから社会人の異色の経歴を持つ苦労人・細山田の夢

トヨタ自動車・細山田武史【写真:荒川祐史】

トヨタ自動車・細山田は異例の社会人入りから5年「日本一を目指そうと思った」

横浜、ソフトバンクでプレーし、現在は社会人野球のトヨタ自動車でベテラン捕手としてチームを支えている細山田武史捕手。7年間のプロ野球生活を経て、今年でトヨタ自動車入社5年目となる。目標だった都市対抗野球優勝を実現し、34歳となった今も現役を続けている訳とは――。都市対抗野球開催を前に話を聞いた。

鹿児島城西、早大を経て、2008年のドラフト4位で横浜に入団した細山田。2009、11年は主戦捕手としてマスクを被った。2013年に戦力外を通告されると、同年オフに育成選手としてソフトバンクに入団。2015年に支配下登録された。だが、細山田はその年限りで戦力外通告を受ける。そして、選手として声を掛けてくれたトヨタ自動車で現役を続けることを決断した。

トヨタ自動車から最初にオファーをもらったのは、ソフトバンクから戦力外通告を受ける約1か月前だった。捕手強化を考えていた当時の部長からの要望を受け、大学の先輩でもある佐竹功年投手が橋渡し役として細山田にラブコールを送った。だが、細山田は拾ってもらったソフトバンクに恩返しすることを理由に、断りを入れている。

その1か月後、細山田戦力外のニュースが報じられると、佐竹は部長の命を受け、その日に再び細山田に電話。翌日、部長と監督が豊田から福岡に飛び、細山田に熱意を伝えた。当時、ソフトバンクは細山田に対し、戦力外と引き換えに、スコアラーかスカウトとして雇用するオファーも出していた。後々指導者になりたいのなら、その後押しもするとも言われていた。現役を引退したら指導者になることを考えていた細山田の心は、スタッフとしてソフトバンクに残る道に傾いていた。だが翌日、トヨタ自動車の2人と会い、気持ちが大きく揺らいだ。細山田は当時の心境をこう振り返る。

「(戦力外を通告され)ああ、これで引退するんだと頭をよぎった。引退する考えもありました。でも、まだやれるのなら、求められるところまで野球をやりたいなという思いもあった。トヨタ自動車には大学の先輩の佐竹さんもいるし、日本一を目指せるチーム。高校、大学で野球は経験したけど、社会人は経験していない。社会人で日本一になったらカッコいいなと思った」

その後、ソフトバンクで当時、編成・育成部長を務めていた小川一夫氏から「本当にトヨタにいくのか?」と何度も引き留められたが、細山田の気持ちが変わることはなかった。「会社の母体も大きいし、しっかり家族を養っていける。やらせてもらおう、日本一を目指そうと思った」。当時はまだ珍しかった元プロ選手の社会人入り。だが、プライドが邪魔することは「1ミリもなかった」という。

初めの頃は「社会人はクビになることはないので、意識の違い、崖っぷち感は低いかなという印象は受けた」という細山田。だが同時に、プロ野球とは違い、一発勝負のトーナメントを必死に勝ち上がっていかなければならない大変さも感じたという。年の離れた若手選手たちに交じっての練習にも、すんなり溶け込めた。

「ソフトバンク1年目の時は育成で、曽根(現広島)、上林、加治屋、石川たちとやっていた。若い子たちと一緒に厳しいところでやらせてもらったので、僕の中でもいい経験になった」

入社1年目に目標だった都市対抗優勝「いつ辞めても良かったなと思えるように」

個人として掲げた目標は都市対抗野球優勝。当時、トヨタ自動車は日本選手権では4度優勝していたが、都市対抗野球では1度も優勝していなかった。会社としても、東京五輪が行われる2020年までに都市対抗で優勝することが目標だった。

「チームには若い捕手しかいなかったので、最初は自分が日本一に導こうという意識が強かった。プロではレギュラー捕手ではなかったし、ケガしてもプロならほかにもいい選手がいるが、ここではケガしちゃいけないし、勝たなきゃいけない。責任を感じたし、重要なポジションだなと思った。必死に自分のことをやりつつ、プロの経験、体験、技術的なことを後輩にも教えました」

横浜時代には1軍でスタメンマスクを被り、ソフトバンクでは育成選手として高卒ルーキーらに交ざって3軍の試合にも出場。プロの世界では酸いも甘いも味わった。そんな幅広い経験が、逆に社会人で役に立った。

「横浜の時は(絶対的な)捕手もいなかったし、自分で勝ち取ったというよりは、出させてもらっていた。結局、結果を出せなかったのが事実。現実は甘くなかった。いけると思ったりもしたけど、周りのレベルが高くて落ち込んだこともあったし、いろんな経験ができた。考え方の幅が広がった。横浜の時はイケイケで、俺やるぜっていう感じだったが、それではうまくいかなかった。今は頭の中も精神的にも一番いいんじゃないかなと思います」

そして、入社1年目で早速、目標であった都市対抗野球優勝を実現した。日立製作所との決勝では、細山田は無四球、11奪三振で9回を1人で投げ切った先発佐竹を好リード。4-0で完封勝利を収め、歓喜の輪の中心で雄叫びをあげた。「源田壮亮(西武)、藤岡裕大(現ロッテ)もいて、粒も揃っていた。ラッキーでした。個人的な目標は達成したので、これでいつ辞めてもいいと思った」。

だが、細山田は翌年以降も現役を続け、翌2017年には日本選手権でも優勝した。ベテランの域にさしかかり、昨年からは将来を見据えて若手捕手を育成するというチーム方針もあって、先発マスクを後輩に譲ることが増えたが、それでも、少ない出番で結果を残す勝負強さは変わらない。都市対抗野球で準優勝した昨年は、JFE東日本との決勝で同点弾。試合には敗れたが、元プロとしての頼もしさは健在だった。

「野球をやらせてもらっている以上、やるのが当たり前。自分のため、チームの勝利に貢献するためにやるのが当たり前という感覚なんです。いつもちゃんとやっていこうと思っているので、出番によってモチベーションが上がるとか下がるとかはない。いつ辞めても良かったなと思えるように頑張っています」

藤原航平監督からは「困った時の細山田」として頼りにされている。出番が減っても、チームの状況を理解し、文句1つ言うことなく、控え捕手としてブルペンでその役割を明るくこなす。

「信頼されていると思うので、正直ありがたいと感じています。チームに求められているし『困ったらホソ行ってくれ』と言われている。後輩が困った時、ダメだった時に先輩がケツを拭くのは当たり前。出番が少ないから結果出せませんでしたという言い訳はしたくない。任せられたところでしっかりやらないといけない」

現役引退後は高校野球監督が目標「これも1つの親孝行なのかなと思っています」

打席に立つ回数が減れば、感覚を維持するのは大変だが「ヒットエンドラン、スクイズ、進塁打などのチームプレーはしっかりできるように、相手投手にたくさん球を投げさせることを意識して、練習している」という。

所属する会社の人材開発部では、採用などの人事や新人の人材開発などに携わっている。シーズンオフには、社内研修に参加することも。入社直後は、野球に興味がなく、細山田のことを知らない社員に自分のことを知ってもらおうと、部内の同僚に毎日「細山田メールマガジン」を送り、社内での認知度を高めていった。

「自分から発信していかないといけないと思って、野球のこととか、ちょっとしたことを毎日書いて送っていたら、だんだん『ホソがいると和む』って言ってもらえるようになった。最初は僕の事を知らない人も多かったけど、野球好きな人が集まって応援に来てくれるようになり、そこから野球に興味がなかった人たちも野球を好きになってくれた」

都市対抗野球や日本選手権では大勢の社員が球場に応援に駆けつけるトヨタ自動車。スタンドから同僚が応援してくれる光景を、細山田は感謝の思いで目に焼き付けている。

現役を終えた後は、将来的には高校野球の監督になることを目標にしている。「高校野球って、勝つだけではなくて、教育も必要。教えることは時間もかかるし、そのためには、自分が人間的に卓越していないといけない。高校野球の指導者が一番難しいと思うんです」。だからこそ、高校野球の指導者になりたいのだという。

それは、大学4年生の時、チェコで行われていた世界選手権の大会中に若くして亡くなった父への恩返しの意味もある。

「親父も柔道が強くて、本当は指導者をしたかったんですけど、(家族を養うために)警察官になった。大学生の時には、プロに入った時にケガをして選手生命を絶たれたら困るから教員免許を取るようにと言われ、保健体育の免許を取ったんです。だがら親父の遺言みたいなもの。母もソフトバンクにいた時に亡くなり、もう2人ともいないんですけど、これも1つの親孝行なのかなって思っています」

大学の時から、現役を引退したら指導者になりたいと思っていた細山田にとって、ブルペンで若手の投手や捕手に技術面や配球を指導するのは、指導者本番を前に、いい予行演習にもなっているという。「聞いてきた選手には伝えるのが自分の役割かなと思っている。自分も実績を残しつつ、後輩にも伝えることをこれからもやっていきたいですね」。

コロナ禍で多くの大会が中止になったことで、今年はまだ公式戦でスタメンマスクを被る機会がない。だが、11月に行われる都市対抗野球の本大会では出番が回ってくる可能性も十分にある。細山田はそんな来るべき出番に備え、今日もチームのために黙々と準備をしている。(福岡吉央 / Yoshiteru Fukuoka)

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