日本学術会議は即刻、解散せよ!|島田洋一 政府の防衛事業を組織を挙げて妨害する、人事はすべて自分たちで決める、黙って税金からカネを出せといった虫の良い話をいつまで許すのか?政府は6人の任命拒否をこう説明すべきだろう。「この6人には税金を使って提言してもらうほどの見識がなく、また国際交流に関与させると国益を損なう言動をする可能性が高いと判断した」と。

典型的な内輪の談合

菅義偉首相が6名を任用しなかった日本学術会議問題で、「学問の自由が侵された」と騒ぐ大学教員らの姿には呆れざるを得ない。まず思い浮かぶのは、夜郎自大という言葉である。

朝日新聞などは、よく学術会議を「学者の国会」と表現するが、むしろ「学界のポリトビューロー」と言うべきだろう。ポリトビューローとは、旧ソ連の共産党中央委員会政治局を指す。ソ連の一般国民はもちろん、共産党員ですら、抑圧の奥の院たる政治局メンバーの選出には全く関与できなかった。

学術会議についても、日本国民は彼らを代表に選んだ覚えはない。私もその一人である大学教員のほとんども、その選出に何ら与る機会を与えられない。

学術会議会則によれば、会員(総数210人。任期6年、3年ごとに半数入れ替え)の補充に当たっては、既存の会員による「推薦その他の情報に基づき」選考委員会が候補者名簿を作成して幹事会に提出、幹事会が「候補者の名簿に基づき、総会の承認を得て、会員の候補者を内閣総理大臣に推薦することを会長に求める」とされている。

要するに、典型的な内輪の談合である。

蓮舫らしい一点の曇りもない愚かさ

立憲民主党の蓮舫代表代行が、政府による6人の任命見送りを「まさに密室政治そのものではないか」と批判したが、学術会議の候補決定過程こそ密室政治そのものだ。

蓮舫氏はまた、「学問の自由に対する国家権力の介入であり、到底看過できるものではありません」とした立憲民主党の声明を引きつつ、「声を上げ続けてください。間違いは世論の力で正せます」ともツイートしている(10月7日)。

私はそれを見て、「利権にしがみつく俗物左翼のためになぜ納税者が声を上げねばならないのか。国民はそこまで馬鹿ではない。蓮舫らしい、一点の曇りもない愚かさだ」とSNSで発信したが、首相官邸前でシュプレヒコールを上げる人々ならいざ知らず、政治家ならもっと深い構造に目を向けるべきだろう。

少なくとも人文社会系に関する限り、大学教員の多くは、そして彼らが多数を占める老舗の学会の多くは左翼的傾向を帯びている。それゆえ、以上のようなプロセスを経て決められる候補者は当然、左翼が中心となる。

税金の浪費を超えた国益を損なう悪質さ

学術会議の新会員は、「(会議自身の)推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」というのが日本学術会議法の規定である。これを、間接的であれ国民が選挙で選んだ首相が、何ら国民の審判を経ない集団の談合結果を丸呑みし、税金から活動資金を拠出せねばならないと解釈するのは、明らかに民主制の理念に反する。首相には最低限、拒否権がなければならない。

しかし、問題はその次元に留まらない。官邸および各官庁が常設あるいは臨時の審議会や懇談会を多数設けるなか、屋上屋を架す日本学術会議のような存在に、既往はいざ知らずいまや意味はない。行政改革の観点からも速やかに廃止すべきである。

「それでは日本にはアカデミーがないのかと思われる」と利権護持派は口を尖らすが、「学術上功績顕著な科学者を優遇するための機関として文部科学省に設置」された学士院がある(日本学士院法)。そもそも「アカデミー」なる古代ギリシャ的な特権サロンが情報化の進んだ現代にいるのかという議論は措くとしても、少なくとも税立の機関は、一つあれば充分である。

学術会議は、税金の浪費という問題を超えて、偏狭かつ非現実的な左翼イデオロギーを掲げる活動家的な大学教員が牛耳り、特に安全保障に関する「学問の自由」を抑圧している点で、明確に国益を損なう存在である。いまに始まった話ではないが、近年顕著に悪質の度を加えた。一応成り立ちから見ておこう。

「自虐的平和主義」体質

学術会議は、第二次大戦後、日本がまだ連合国軍総司令部(GHQ)の統治下にあった1949年に設置された。当時のGHQの何よりの使命は、日本を二度と戦争のできない国にすること、すなわち安全保障面における日本弱体化であり、学術会議にもその一端を担うことが期待された。

GHQの意向に沿い、学術会議はまず1950年に、「戦争を目的とする科学研究には絶対従わない決意の表明(声明)」なる文書を発表している。

「われわれは、文化国家の建設者として、はたまた世界平和の使として…科学者としての節操を守るためにも」云々の大仰な文章には文化の香りや節操がみじんも感じられないが、ともあれ、こうした学術会議の「自虐的平和主義」体質は、日本が占領期を終え独立したあとも変わらなかった。それどころか、現実とのズレをむしろ拡大させてきた。

明らかな「学問の自由」の侵害

1967年に学術会議は、同趣旨だがタイトルの「戦争」を「軍事」に変えた「軍事目的のための科学研究を行なわない声明」を出している。ここで注意すべきは、戦争と軍事が代替可能な言葉として使われている点である。1950年の第一次声明では「敵」はあくまで「戦争」であったが、1967年の第二次声明では「軍事」全般が敵視されるに至っている。

すなわち、敵対勢力の侵略を抑止し、戦争の発生を未然に防ぐには一定の軍事力が必要という、国際政治の常識中の常識を捨て去ると宣言したに等しい。

この一事を見ても、学術会議が当事者らが主張するような「学問」的真理を希求する純粋な「学者」集団ではなく、「戦後レジーム」を護持せんとする政治的磁気を濃厚に帯びた存在であることが分かる。

そして、2017年3月には、第三次の「軍事的安全保障研究に関する声明」を出し、「上記二つの声明を継承する」としたうえで、規制対象を「軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究」にまで広げた。

先端的な研究であればあるほど、軍事にも民生にも応用されうる。将来どの分野にどう活用されるかは、当の研究者にも予想がつかない。

「見なされる可能性のある」となれば、防衛省や自衛隊が関心を持ついかなる研究も、学術会議の圧力を通じて中止に追い込まれかねない。明らかに「学問の自由」の侵害だろう。

中国の諸団体との交流には、無警戒どころか積極姿勢

民生用に開発された技術が軍事に応用される事例のみならず、逆に軍事用技術が民生分野に応用され、人々の日常生活を豊かにした事例も数限りなくある。あらゆる情報通信技術は民生用にも軍事用にも使われるが、「軍事的安全保障研究と見なされる可能性」があるから開発を止めよというのだろうか。過酷な使用条件を前提とする軍事用を基準にしたほうが、民生用としても質が高くなる場合も多い。

潜在敵国やテロ集団に軍民両用技術が渡ることは当然警戒せねばならないが、学術会議はその点、中国の諸団体との交流には、無警戒どころか積極姿勢を見せてきた。共産党独裁の中国では、軍と民の線引きなどない。多くの人が指摘するとおり、犯罪的な矛盾だろう。

学術会議の声明は特に、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」を敵視し、幾重にも「慎重」姿勢で臨むよう大学はじめ研究機関に強く求めている。

「研究成果は、時に科学者の意図を離れて軍事目的に転用され、攻撃的な目的のためにも使用されうる」から、そうした可能性のある場合は受け入れてはならないというのである。

しかし、「軍事的な手段による国家の安全保障にかかわる研究」には手を出すなというのは、侵略を抑止するには「軍事的な手段」も必要と考える研究者の思想並びに「学問の自由」を否定することに他ならない。

目立った実例の一つが、北海道大学の奈良林直名誉教授が指摘するケースである。 これによって「学問の進歩」も妨げられ、日本の自衛能力の向上、経済発展も阻害された。

「京都大学宣言」への重大疑問

こうした骨のない対応を示したのは北大執行部だけではない。たとえば京大は、学術会議の「軍事的安全保障研究」禁止声明から1年後の2018年3月に「京都大学における軍事研究に関する基本方針」を発表し、「本学における研究活動は、社会の安寧と人類の幸福、平和へ貢献することを目的とするものであり、それらを脅かすことにがる軍事研究は、これを行わないこととします」と宣言している。

文の冒頭に「創立以来築いてきた自由の学風を継承し」とあるが、学術会議の決定に追従し、「平和への貢献」と「軍事研究」を対立物と捉える硬直した発想のどこに「自由の学風」があるのか。学術会議の誤りに敢然と抵抗してこその「自由の学風」ではないのか。

京大は私の出身校だが、自由な発想が湧き出る素晴らしい教授もいれば、そうでない教授もいた。要するに普通の大学である。学術会議の「権威」に立ち向かうだけの人材が、残念ながら2018年当時の執行部にはいなかったわけだろう。

学術会議の大学を威圧する力は、「優れた研究又は業績がある科学者」のうちから「内閣総理大臣が任命」した会員によって構成される国立機関であることに由来する(日本学術会議法第七条)。

しかし言うまでもなく、歴代自民党政権は「軍事的な手段」も国家安全保障に不可欠との立場を取ってきた。あの「悪夢」の民主党政権ですら、その点では同じ認識だった。

したがって本来、選挙で選ばれた国会議員多数の考えを真っ向から否定する声明を学術会議が出した2017年の時点で、国会に「学術会議廃止法案」が提出され、与野党多数の賛成で成立していなければならなかった。特に野党議員らは、昭和戦前期の「統帥権干犯」のごとく一部学界利権集団の主張に便乗して事の政局化を図るのではなく、自らの無為を反省せねばならない。

日本の大学教員には、いまだ旧社会党的な「非武装中立」を唱える化石左翼が多い。その多くは媚中派であり、中国政府の軍拡や人民監視体制の強化に資する技術を流出させてはならないといった問題意識はない。

彼らが各種学会で多数派を構成する以上、その代表選手を集めた学術会議も、政府の安全保障政策を否定する人々が差配し続けることになる。

「黙って税金からカネを出せ」といった虫の良すぎる話

北朝鮮や中国の脅威に目を閉ざす空想的平和主義者が徒党を組み、現実主義的な研究者を圧迫する仕組みとなる。首相に任命された特別職国家公務員という身分を振りかざし、税金から手当を受けつつ、である。

政府の防衛事業を組織を挙げて妨害する、人事はすべて自分たちで決める、黙って税金からカネを出せといった虫の良い話をいつまで許すのか。彼らと考えを同じくする共産党ないし社民党の政権が実現した暁に、各種審議会委員なり内閣府参与なりに任用してもらえばよいだろう。自民党政権下において、これ以上倒錯した状況を放置してはならない。

学術会議の側も、多少の矜持があるなら、6人を任用拒否した「不見識きわまりない」首相が任命権を持つ官製組織など憤然とボイコットし、独自に「真正学術会議」を作るくらいの気概を見せるべきだろう。年間10億円の手当や経費くらい、朝日新聞や左翼文化人に頼み込めば何とかしてくれるはずだ。いつまでも税金にしがみつくべきではない。

任命を拒まれた一人、岡田正則早大教授は次のように述べている。

「研究者だけで完全に独立した組織を作るというのも一つの考え方だと思う。しかしいまの日本で、日本学術会議のような学者の連合体が作れるか、ただでさえボランティアでやっている状況なので、そこが問題だと思う」

何を甘えたことを言っているのか。私も役員を務める民間シンクタンク、国家基本問題研究所(櫻井よしこ理事長)は会費と寄付のみで運営し、各分野の専門家や政治の現場に通じたジャーナリストを集めて毎週研究会を行い、提言活動を行っている。一銭の税金も入っていない。

「(学術会議は一回の出席あたり)手当ても2、3万円くらいだし、みんなボランティア精神でやっている」と岡田氏は訴える。フラッと顔を出し、左翼的コメントを口にしただけで2、3万円は、彼らが好きな「庶民感覚」から言えば暴利に近いだろう。

私は国基研の評議員兼企画委員兼研究員だが、手当ては見事にゼロである。毎日、朝から研究所に詰める常勤の職員は別だが、大学から給料を貰い、時々会議に参加する程度の人間はそれでよいと思っている。

左翼勢力も国基研同様、会費や寄付を募って、あるいは自腹で活動すればよい。なぜ、権威主義的左翼がメンバーを談合で決める会合(実態は政治活動)にだけ、国民が年間10億円以上の税金を出さねばならないのか。

同窓、松宮孝明教授の恫喝めいたセリフ

今回の6人任用却下問題では、左翼教員たちの鼻持ちならないエリート意識も改めて浮き彫りになった。

任命拒否組の一人、松宮孝明立命館大教授はメディアに頻出し、「ここ(学術会議)に手を出すと内閣が倒れる危険がありますよ。なので、政権は撤回するなり早く手を打ったほうがいいですよ。これは政権のために申し上げておきます」と恫喝めいたセリフまで口にした。

松宮(と大学の同窓なので気安く呼ばせてもらうが)とは、専門分野は違ったが、大学院の受験勉強に寧日ない猛暑の折、何人かでクーラーの効いた部屋を借り、机を並べたこともある。

知らぬ仲でもないので敢えて苦言を呈するが、真面目な学徒だったはずの君が、愚かなメディアと愚かな野党に猿回しの猿よろしく踊らされ、「学問の自由」侵害の被害者を演じているさまは、はやりの言葉で言えば「痛い」。

「学問の自由に対する挑戦」などと実際は感じてもいない綺麗事を言うのではなく、俗な政治家が任命権を持つような組織は学問の探究とは無縁どころか有害であり即刻解体すべし、と啖呵を切るべきではないか。政府は俺を任命せよなどと運動をするのではなく、学術会議ボイコットの先頭に立ってもらいたい。

最も顰蹙を買った川勝平太静岡県知事

この間の動きで最も顰蹙を買ったのは、静岡県の「学者知事」川勝平太氏だろう。10月7日の会見で、次のように述べている。

「菅義偉という人物の教養のレベルが図らずも露見したということではないか。菅義偉さんは秋田に生まれ、小学校中学校高校を出られて、東京に行って働いて、勉強せんといかんということで(大学に)通われて、学位を取られた。その後、政治の道に入っていかれて…。学問された人ではないですね。単位を取るために大学を出られたんだと思います」

まず、秋田に生まれ育ったことが教養のレベルと何の関係があるのか。東京なら教養が身に付くのか。「田舎者は無教養」という出身地に関する度し難い偏見に毒されているか、頭と口が相当ゆるいか、どちらかだろう。表面的な学歴が人間の教養のレベルを決めるという発想も、憐れなまでに権威主義的であり、教養俗物的だ。人格識見に劣る知事は多いが、この人物は間違いなく最低レベルと言える。

学術会議を牛耳ってきたのも、真の教養を欠くこうした独善的な「学者」であり、その意味で応援団にふさわしい道化師ではあった。

なお、自らを一片の恥じらいもなく「学者」と称する大学教員を見ると、異質の精神を感じざるを得ない。私は自分を学者と呼んだことはない。恥ずかしくて口に出せないのだ。

私にとって学者とは、経済、法学、政治学にまたがる壮大かつ緻密な業績を残したフリードリヒ・ハイエクのような人を指すのであって、私も含む一般の大学教員は、学徒ではあっても学者と胸を張れる存在ではない。そうした自省の念、廉恥心、というより常識を欠くのが、「政治家が学者の人事に口を出すのは許されない。独裁への道だ」と叫んでいる人々だと言える。

これ以上、大学教員はプライドのみ肥大化した夜郎自大な存在と世間に印象付けるのはやめてもらいたい。迷惑このうえない。

全国の左翼教員は朝日新聞に抗議すべき

朝日新聞が社説で、「このままでは学者が萎縮し自由な研究や発信ができなくなるおそれがある」と書いていたが、そんな情けない人間と見なされたことに対し、全国の左翼教員は朝日に抗議すべきではないか。

メディアにおいては、政府に反対意見を持つ学者を入れるところに学術会議の意義があるといった議論が盛んである。しかし彼らは日常的に野党の意見聴取に応じ、野党議員の国会質問という最もオープンかつ効果的な形を通じて批判を発信している。野党側公述人として国会で意見を述べる者も少なくない。左翼の大学教員から改めて「提言」を受ける常設の税立機関など全く必要ない。

左翼教員らも実は、政府が自分たちの「提言」に耳を傾けるとは思っていない。彼らが学術会議の存続に固執するのは、全国の大学に対する威嚇装置として意味を見出しているからである。その象徴例が、すでに触れた2017年の「軍事的安全保障研究に関する声明」に他ならない。

野党やメディアからは、6人を任用拒否した理由を説明しろと政府を叩く声が上がっている。少々挑発的だが、こう説明すればよいだろう。

「政府としては、この6人には税金を使って提言してもらうほどの見識がなく、また国際交流に関与させると国益を損なう言動をする可能性が高いと判断した」

その判断がおかしいというなら、野党は反証を示しつつ、「こんな立派な学者たちを蹴った政府は許せない」と選挙の争点にすればよい。

一方、自民党のほうは、個々の任用の問題を超え、学術会議の廃止を明確に争点にすべきだ。推薦システムの微修正や政府全額出資の財団法人など、焼け太りを許しかねない「改革案」で妥協してはならない。(初出:月刊『Hanada』2020年12月号)

島田洋一

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