ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.13 〜ウラル山脈を越える〜

「ロシア」の始まりは9世紀末ころ、現在はウクライナ国の首都となっているキエフを中心として成立した「キエフ・ルーシ(キエフ公国)」だという。
その、国と人間を意味した「ルーシ」という言葉こそが、「ロシア」という国名の由来なのだ。ユーラシア西端のロカ岬を目指してロシアの地を走り続ける一行は、いよいよヨーロッパへと近づいてきた。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。

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ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.12 〜「日の丸」と出会う〜

気がつけば感じたヨーロッパの空気

一週間滞在したクラスノヤルクを出発し、空港に二人目のボランティア通訳アレクセイ・ネチャーエフさんを迎えに行く。在日ロシア人のための情報交換サイトの掲示板で知り合ったアレクセイさんは、ウラジオストク在住の日本語通訳兼翻訳家だ。

今日は、クラスノヤルスク空港からそのまま西へ進み、ノヴォシビルスクを目指す。空港からの主要道路だからだろうか、路面が鏡のように滑らかだ。これまで悩まされてきた凹凸やギャップが一切存在しない。このまま続いてくれればいいのだけど。

交代で運転を担当しながら、走れるところまで走る......。

道路事情と併せて、走っているクルマの種類も変わってきた。日本車が減った分、ロシア車が増えた。クルマ好きのアレクセイさんが、教えてくれる。一番数多く走っているのが、ジグリ。フィアット124を当時のソ連でライセンス生産した、4ドアセダン。ジグリをよく見ると、ヘッドライトが4眼のものと2眼のものがある。

「ヘッドライトが4つあるのが、ラーダといいます。輸出するために、インテリアなどもちょっと豪華になっています」

社会主義体制下でも、とても資本主義的なバッジエンジニアリングが行われていたことに驚かされる。モデルチェンジした少し新しめのスタイリングの4ドアセダンと5ドアハッチバックも見掛ける。

モスクビッチは、3世代ぐらいのバリエーションをまんべんなく見た。同じスタイリングで長年作り続けられているらしい大きな4ドアセダンがヴォルガ。ジープスタイルのウアズ。

クラスノヤルスクまでは、ロシア車だろうが日本車だろうが中古車や大古車が多かったが、西へ進むにつれて、きれいで新しいクルマが増えていった。

国道M53を快調に西に進む。中央分離帯のない片側2車線は空いており、路面の良好さとあいまって、時速130〜140キロを維持できる。ところが、時速100キロを境にハンドルのブレが激しくなってくる。

「ホイールバランスが狂ったんじゃないかな」

あれだけダートや凸凹の激しい道を走ってきたのだから、ホイールバランスを調整する鉛が取れてしまっても無理もない。どこかタイヤショップか修理工場を探して、直したい。

その前に、ランチ。ノヴォシビルスクまでは先が長いので、ピロシキとソーセージでも買って、運転を交代しながら食べようということになった。

M53沿いの食堂兼よろず屋に入って品定めをしていると、店のオバちゃんが、「すぐできるから、中に入って食べて行きなさい」と、声を掛けてくれた。サービスというものが未だ皆無なロシアで、こうした人情に触れるととてもうれしい。

メニューは、ウズベキスタン風ラム肉を載せたカレー風味スープヌードルにトマトとロシア・キュウリのサラダ。

「これを掛けると美味しいわよ」

裏庭で育てているハーブを漬け込んだ自家製ビネガーともども、すべてこの辺りの自然の恵みを生かした手作りの美味さが生きていて、大いに満足した。ロシアでは、うまいものにありつけることに多くの期待を抱けないと諦めきっていたので、このオバちゃんのヌードルとサラダは驚きだった。飲み物も併せ、3人分で130ルーブル。

ちょっと走った先のアーチンスクという町の入り口にある自動車修理工場で、カルディナのホイールバランスを取り直してもらう。フロントの2本分で、30ルーブル。工場に、最新型のラーダ112 1.5GLI 16Vが停まっていた。

「ウラジオストクには走っていないので、初めて見た。カッコいい」

アレクセイは感心しているが、僕には「プロポーションの崩れた20年ぐらい前のジウジアーロ風」にしか見えなかった。

要所要所でカルディナのメンテナンス。アーチンスクの自動車修理工場でホイールバランスを調整。

ノヴォシビルスクには、午後10時少し前に着いた。クラスノヤルスクとは時差があり、腕時計を1時間戻す。1時間得したわけだ。日本とは、2時間差。ツェントル(中心)にあるホテルの2軒目にチェックイン。

ノヴォシビルスクは、1917年の革命以降、近代的な工業都市へと急速な発展を遂げ、約150万人とシベリアでは現在最も多くの人口を数える大きな都市だ。

西へ行くに従って便利になった宿泊環境

翌朝は、カルディナのフロントウインドウガラスの虫の死骸を拭うことから始めた。ハイスピードを維持して走り続けられるようになったから、おびただしい数の虫が潰れている。こっちで買った洗浄剤があまり効かない。

夏だったこともあり、大量の虫を蹴散らしながらのロシアンドライビングとなった。

今日は、ノヴォシビルスクからオムスク、イシュムを経由して、行けるところまで行って、ホテルを探して泊まることにした。昨日までは、次に泊まる街に見当を付けて、走行予定を立てていたが、今日からは変えることにした。道路事情が良くなったから、ここでなるべく距離を稼いでおこうという作戦だ。

その上、宿泊施設事情もだいぶ好転していることも後押ししている。小さな街でも、道路標識に宿を表すベッドのマークがよく見られるようになったのだ。

行けるところまで行って、宿を見付けてチェックインするというのは、自動車旅行の醍醐味のひとつだ。宿の予約をしないということは、行動の不確定要素のひとつになるが、裏返すとそれは同時に自由でもあるということだ。

走ってみたら予定のもっと先まで行ける、あるいは手前で泊まりたい。状況や気分に合わせて、宿泊をコントロールできる。

アメリカやヨーロッパでは、そうした旅行者のためのホテルやモーテル、ペンションなど、様々な種類の宿泊施設が充実しているが、ロシアはまだこれからだ。それでも、西に進むにつれて、つまりヨーロッパに近付くに従って、こうして宿泊施設が道路標識に記されるまでなっている。クラスノヤルスク以東では考えられなかった。

たどり着いたのが、ヤルトロフスク。地図にも出ていない小さな街だが、ベッドマークの標識に従ってみた。陶磁器の工場がひとつあっただけで、他には、住宅以外に目立ったものが見当たらなかった。ノヴォシビルスクからの走行距離は、これまでの最長で1256キロ。

道を訊ねながら進んでいった“ホテル”は、古い警察署の建物内にあった。他にも、保険会社オフィスや弁護士事務所なども部屋を借りている。木造2階建ての2階部分がホテルになっていて、トイレ付き250ルーブルをふたつ、無しの180ルーブルをひと部屋借りた。

夕飯は、国道のIP402まで戻り、ロードサイドカフェに入る。スパイスを擦り込んだ牛肉や羊肉を炭で焼いたバーベキューが、格別に美味。3人とも、むしゃぶり付いて食べた。

微妙な存在のウラル山脈。気がついたら越えていた

翌朝、朝7時に出発。今日で、アジアともお別れだ。ウラル山脈を越えれば、もうそこはヨーロッパだ。

チェリャビンスクからのM5には、中央分離帯が設けられていた。ロシアで初めて見るのではないか。

地図で見る限り、この先辺りからウラル山脈が始まっているはずだ。だが、ここからは山脈らしいものは何も見えない。

ウラル山脈の東側に広がる国道沿いの景色は、大規模な農地が広がる穀倉地帯だった。写真の奥側が西方向で、その先にウラル山脈が横たわっている。このあたりは片側一車線で、路面のうねり具合もよくわかるだろう。

M5の両側は、林や耕作地、集落、ところによっては小さな工場などが続いている。山こそ見えないが、少しずつ高度が上がっていく。高原を走っているようだ。ウラル山脈は、山脈とはいえ、アルプスのような急峻なものではなく、きわめて幅の広い高原のようなものだ。

面白いのは、林が連なる高原の中なのに、道幅が広く、駐車余地のあるところでは、土産物の屋台がたくさん店を広げていることだった。それも、山には必要ないはずの浮き輪や空気を入れて膨らませる縫いぐるみ、ボートなどがたくさん売られている。

そばに工場でもあるのだろうか。白樺の樹を斜めにスライスした板に景色を印刷した掛け軸(?)のようなものや、自転車、食器など脈絡のない品揃えだ。さらに不思議なのは、そうした屋台が、何軒も現れては消え、現れては消えてくるのだが、売っているものはほとんど一緒なのだ。チェーン店?

道は登るだけでなく、下ったり、曲がったりしながら、延々と続いていく。標高は700メートル台がずっと続く。途中に勾配がキツくなるところでは、対向車線にクルマが来ていなければ、ロシアのドライバーは構わず、出ていく。

片側2車線だから、場合によっては4台がサイドバイサイドになる。峠道の整備は行き届いているとはいえず、崖から落ちたり、落石などの被害も少なくないのではないか。これで勾配がキツかったら、かなり危ない道だ。

ウファの市内で出会った少女たち。ウラル山脈を越えてヨーロッパに近づいたからか、ピアスで飾っていた。

ウラル山脈らしいところを過ぎ、ウファの街の「ホテル・ロシア」に早めにチェックインした。地理的にはヨーロッパのはずだが、いわゆる西ヨーロッパらしいものは何ひとつ見付からない。これまで走ってきたロシアや旧ソ連を彷彿とさせるものばかりが眼に付く。

それでも、人とクルマの数は増え、新しい建物が目立つ。ヨーロッパに入った感慨を抱けるかと期待していたが、ちょっと拍子抜けした。
(続く)

金子 浩久 | Hirohisa Kaneko
自動車ライター。1961年東京生まれ。このユーラシア横断紀行のような、海外自動車旅行を世界各地で行ってきている。初期の紀行文は『地球自動車旅行』(東京書籍)に収められており、以降は主なものを自身の ホームページ に採録してある。もうひとつのライフワークは『10年10万kmストーリー』で、単行本4冊(二玄社)にまとめられ、現在はnoteでの有料配信とMotor Magazine誌で連載している。その他の著作に、『セナと日本人』『レクサスのジレンマ』『ニッポン・ミニ・ストーリー』『力説自動車』などがある。

田丸 瑞穂|Mizuho Tamaru
フォトグラファー。1965年広島県庄原市生まれ。スタジオでのスチルフォトをメインとして活動。ジュエリーなどの小物から航空機まで撮影対象は幅広い。また、クライミングで培った経験を生かし厳しい環境下でのアウトドア撮影も得意とする。この実体験から生まれたアウトドアで役立つカメラ携帯グッズの 製作販売 も実施。ライターの金子氏とはTopGear誌(香港版、台湾版)の連載ページを担当撮影をし5シーズン目に入る。

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