落合博満氏の“失神ノック”は時代錯誤か? 経験者の森野氏が語る覚悟の必要性

中日で活躍した森野将彦氏【写真:若林聖人】

「ある程度は才能でやってこられている」…迎えた2005年の秋季キャンプ

浴びせられるノックの雨に、ただ必死に食らいつく。次第に視界がぼやけ、意識は朦朧としてきた。もう15年も前の記憶だが、鮮明に思い出す。中日で21年間プレーした森野将彦氏にとって、ターニングポイントとなった瞬間だった。先月に初の著書「使いこなされる力。名将たちが頼りにした、“使い勝手”の真髄とは。」(講談社)を出版。球界屈指の“万能選手”となった裏には、次元を超えた猛練習があった。

2005年の秋。高卒9年目のシーズンを終えた森野氏は、まさか人生を変える秋季キャンプが待っているとは思いもしなかった。その年はプロ入り自己最多の118試合に出場。「ミスタードラゴンズ」立浪和義氏に代わって三塁の守備につく機会も増えていた。

「控えでも1軍にはずっといられるし、ある程度は才能でやってこられている。まあ、来年はどんな年になるんだろうってくらいの気持ちだったよね」

そんな胸の内を見透かしていたのが、当時監督だった落合博満氏だった。特守のメニューをこなす森野氏に、これでもかとノックを打ち続けた。森野氏はしばらく起き上がれず、失神寸前に。後にも先にも、あれ以上追い込まれたことはなかった。

厳しい練習こそが正義とは、全く思ってはいない。森野氏自身も2018年から2年間打撃コーチを経験しただけに、指導の難しさも感じている。ただ、あの“失神ノック”によって、自らに劇的な変化が起きたのは間違いなかった。

「ひと言で表すなら、皮が剥けたというのかな。こんな辛い思いをして、来年も今まで通りのシーズンだったら悔しいって思った。もう、後には引けない。自分から絶対にレギュラー取りに行くんだという気持ちにはなったね」

翌2006年はシーズン中盤に立浪氏から三塁の定位置を奪取。その後はレギュラーとして中日の黄金期を支えた。2017年に引退するまでプロ通算21年で1801試合に出場。投手と捕手以外すべてのポジションを守り、1581安打、165本塁打、782打点をマークした。

異次元の猛練習「僕みたいな選手がいたらやってもいいと思う」

転機となった約2時間の特守。自身の意識だけでなく、周囲の見る目も変わった。「常にいろんな人に見られている中で、結果を出すのがプロだから」。森野氏が体で示した覚悟は、チーム内に伝播。1.5軍の若手選手は、期待の主力へと変貌を遂げていった。

あの猛練習が誰にでも有効かと問われれば、森野氏は苦笑いを浮かべて首を横に振る。「僕みたいな選手がいたら、やってもいいと思う」。必要なのは、反骨心や貪欲さ。ただ、ベテランの立場やコーチとして若手選手と接していると、思うこともあった。

「いまの子は、泥臭さや、なりふり構わない姿を恥ずかしいと思っちゃうだろうね。ミスしても笑顔が出ちゃう。照れ隠しなのかな。僕は悔しくて仕方なかったけどね」

著書でも語っている黄金期の重圧。ピリピリと感じていたミスの重さ。落合氏がよくつぶやいていた言葉を思い出す。「こいつらは、見てやんなきゃダメだから」。指揮官が鋭い視線を注ぎ続けることで、選手に緊張感が生まれる。それがチームの隙のなさとなり、強さに繋がっていったと感じる。

「そういう時代だったし、それを評価してくれるのが落合さんだった」

もちろん選手も首脳陣も年々入れ替わり、チームの雰囲気は違ってくる。過度なプレッシャーが萎縮につながることもある。それでも、厳しいプロの世界を生き抜いていくためには、覚悟を決める瞬間が必要だという思いは、今でも不変だと確信する。森野氏にとっては、あのノックに耐えた経験こそが、一流への入り口だったということだ。(Full-Count編集部)

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