戦時中の食卓 母の愛語る 料理研究家・脇山順子さん

心に刻む食糧難の記憶

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食と平和の尊さを語った脇山さん=長崎市平野町、長崎原爆資料館ホール

 米の代用食はサツマイモとカボチャだった。おかずにもサツマイモやカボチャが並んだ。みんなが日々、食べ物を求めていた時代。えり好みできるわけもなかった。8歳で被爆した長崎市の料理研究家、脇山順子さん(84)は戦中戦後の食糧難を心に刻み、食と平和の尊さをかみしめている。
 11月29日、長崎市内で戦時中の食生活をテーマに講演。つつましくも母親の愛情が詰まった食卓の話を聴衆に届けた。
 被爆当時は長崎師範学校付属国民学校の3年生。父親は病で既に亡くなり、母親が女手一つで3男2女を育てていた。1945年8月9日、きょうだい5人で鳴滝の自宅2階(爆心地から3.3キロ)にいた時、原爆が投下された。吹き飛ばされ気付いたら1階にいたが、働きに出ていた母親を含めて家族は全員無事だった。
 ただ、原爆により同級生の命が奪われた。「8歳で亡くなりどんなに無念だったか。その人たちの分まで生きていかなければ申し訳ないと思っています」
 終戦後は、食糧不足が待っていた。脇山さんは「銀飯」と呼ばれた、七分つきの白米を食べたのは年に1、2回だけと記憶を語った。母親からは「石ころ以外は何でも食べられるよ」と教えられ、子どもたちは「これ食べられるかな」が口癖だったという。
 食糧配給でうどんが手に入った時、きょうだいで年齢順に5本、4本、3本…と分け合った。梅干しは種を割り、白い中身を「天神様」と言って食べた。正月料理として出された花型のゆで卵は、食べずにずっと見つめていた。母親特製の「さつまいも汁粉」は甘くて、うれしい思い出だ。
 「30回よくかみなさい」「家族で分け合って食べるとおいしい」-。食卓での母親の忘れられない言葉はいくつもある。みそ汁の煮干しを食べないと学校に行けないというルールも、その一つ。子どもに何とかタンパク質やカルシウムを摂取させたいという親心は、大人になって気付いた。
 当時は戦争に疑問を持たず、戦地の兵隊に感謝して「欲しがりません勝つまでは」と自らに言い聞かせる軍国少女だったという脇山さん。「子どもたちに二度とあんな経験をさせてはいけない。生きている限り、平和の尊さを発信していきたい」。そう力を込めた。
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 被爆、戦後75年の今、食べたいものはいつでもコンビニで手に入り、食べられるのに廃棄される「食品ロス」の問題は地球規模に広がっている。飽食の時代に過去から学ぶべきことは何か-。
 「当時はおいしい、おいしくないは関係なく、生きるために食べるしかなかった」と脇山さん。先人たちはどんな食べ物でも粗末にせず、素材を丸ごと味わう「一物全体」を体現し、生き抜いてきた。飽食の今だからこそ「『食は命』だとその大切さを見つめ直してほしい」と話した。