「原爆小頭症」の存在、知ってほしい 20歳迎えられないとされた17人が74歳に

 1945年8月、米国が広島と長崎に落とした原子爆弾は、当時母親のおなかにいた赤ん坊にも多大な影響を与えた。妊娠早期に強力な放射線を浴びたことで、同世代に比べて頭囲が小さく、生まれながらに知能や身体に障害がある「原爆小頭症」の被爆者がいる。かつて「20歳まで生きられない」と言われたが、2020年には、17人が74歳を迎えた。一方、世間の無理解や差別と戦いながら小頭症の子を支え、守ってきた父母は次々と他界。支援団体の活動も岐路を迎えている。(共同通信=池田絵美)

 ▽74歳の誕生会

 「お誕生日おめでとう!」。10月18日、原爆小頭症の人々と支援者でつくる「きのこ会」が、広島市内で誕生会を兼ねた総会を開いた。新型コロナウイルスの影響で入所先の施設から外出できない人も多く、小頭症会員の参加は昨年の9人から過去最少の3人に減った。

 良いニュースもあった。24年ぶりの新会員となった小頭症被爆者の中井新一さん(74)と妹の葉子さん(69)が、横浜市から初参加したのだ。

 総会に初参加し、あいさつする中井新一さん(中央)と妹の葉子さん(左)

  きのこ会から各自治体への働き掛けが功を奏し、神奈川県庁が送った会報をきっかけに、加入した。

 新一さんは小頭症の仲間と共に、アップルパイに立てられたろうそくの火を吹き消し、笑顔をみせた。言語障害のため複雑な会話は難しいが「ありがとう」と述べ、会場は温かな空気に包まれた。葉子さんは「これまでは兄とずっと2人で生きていたが、きのこ会に入り、広島で待っていてくれる家族ができた」と喜びをかみしめた。

 身寄りがなく、毎年会を楽しみにしている小頭症の茶和田武亜(ちゃわだ・たけつぐ)さん(74)は、広島市の入所施設のベッドからオンラインで参加。画面越しに次々と声をかけられ、涙を拭う場面もあった。

10月に開かれた総会で、入所施設からオンライン参加する茶和田武亜さん

 55年前の初会合から参加している小頭症の田中敏子さん(74)=同市=は、集まった約40人の支援者らを前に近況を問われ「とても良い感じでした」とにっこり。通っている作業所での仕事内容などを簡単に紹介した。

 帰り際、会の感想を尋ねると「久しぶりにみんなに会えて良かった。来年もあったらいいな」と話していた。

 ▽近づく限界  

 きのこ会によると、小頭症被爆者は知能や身体に先天的な障害があるが、程度はさまざま。厚生労働省によると、国が小頭症と認める被爆者は2020年3月末時点で国内に17人いる。うち16人がきのこ会に所属していたが、11月10日、当事者として長年にわたり原爆被害を訴えていた会員の吉本トミエさんが、慢性腎不全のため74歳でこの世を去った。

 2016年6月の総会で古希を祝う原爆小頭症の被爆者ら。一番右が20年11月に亡くなった吉本トミエさん

 ほかの会員も健康状態が悪化しており、自力で歩けない人や意思の疎通が難しい人もいる。いずれも両親は亡くなっており、多くの会員が、会の支援を頼みの綱としている。吉本さんの葬儀も、きのこ会の全面的な支援の下、執り行われた。

 だが、支援者側も同様に高齢化している。「きょうだいに支えられている人もいるが、いずれにせよ老老介護の状態だ」。きのこ会の会長を務める長岡義夫さん(71)は実情を訴える。

 長岡会長は、広島市内で1人暮らしをする3歳上の小頭症の兄をはじめ、複数人の支援を掛け持ちする。会に在籍する支援者は県内外を含め十数人。その中でも急な呼び出しなどに対応しているのは、長岡会長ら50~70代の4人が中心だ。「私もあと何年、活動できるか…」。不安がくすぶる。

 ▽きのこ雲の下で

 きのこ会が広島市で発足したのは、日本が高度経済成長の真っただ中の1965年。日米両政府が戦後20年間、原爆小頭症の被害実態を公にしなかったこともあり、それまで小頭症の存在は社会に知られていなかった。中国放送(広島市)の記者だった秋信利彦さん=2010年に75歳で死去=らが、本人や家族を粘り強く訪ね歩き、独自に実態を解明した。

 1965年6月、秋信さんの取材を通じてつながった6人の家族が初めて集まり、胸の内を打ち明け合った。これが会の結成につながる。「きのこ雲の下で生まれた小さな命だが、木の葉を押しのけて成長するきのこのように元気に育ってほしい」。会の名称には親たちのそんな思いが込められた。

 会が粘り強く公的支援の必要性を訴え続けた結果、日本政府が小頭症を「近距離早期胎内被爆症候群」の名称で原爆症に認定したのは、その2年後、67年9月のことだった。

 ▽二重の差別

 原爆小頭症の人たちが苦しんだのは、被爆者であることと、障害者であることへの二重の差別。小頭症として生まれたという理由だけで、きょうだいにも差別が及ぶことを心配した肉親と離れ離れにされた人もいる。

 長岡会長の母千鶴野さんは、会の結成当初から活動を引っ張った。「母はいつも兄の行く末を心配し、兄より一分一秒でも長く生きたいと望んでいた」と長岡会長。「親たちが決死の覚悟で声を上げなければ、小頭症の存在はこの世から無かったことにされていただろう。そんなのはあんまりだ」

 「小頭症のお子さんを持つ親は、自分も被爆していて体はぼろぼろだった。それでも懸命に働き続け、世間の無理解や差別から子どもたちを必死で守っていた」と振り返るのは、俳優の斉藤とも子さん(59)だ。小頭症被爆者やその家族、支援者に取材を重ね、05年に会の歩みをまとめた本「きのこ雲の下から、明日へ」(ゆいぽおと)を出版した。

 原爆小頭症の患者や家族が抱える福祉課題について報告する女優の斉藤とも子さん(左)2005年6月、広島市中区の広島国際会議場

 ▽存在を世に  

 きのこ会は毎月一度、小頭症の会員らの近況を共有したり活動方針を話し合ったりする事務局会議を開いている。最近は小頭症被爆者の終末期や、彼らが亡くなった後に小頭症の存在をいかに伝え残していくかという議論が増えてきた。  原爆投下から75年。いつか訪れる被爆者なき時代を前に、関係者の間で模索が続いている。

広島市の平和記念公園。後方は原爆ドーム=10月25日

 「彼らの大半は原爆被害を自らの口で直接訴えることはできない。しかし、存在自体が声なんだ」と長岡会長。中国放送記者で、会の事務局長を務める平尾直政さん(57)は「小頭症被爆者は原爆さえなければ、普通に生活を送れていた。だからこそこういう人たちがいる、いたんだよ、と生きた証しを伝えていくことが、核兵器廃絶への大きなメッセージとなる」と力を込めた。

 ▽取材後記

 「あなたたちが生きづらいのは、あなたたちのせいではない。社会のせいなんだ」。きのこ会の総会で、長く障害者福祉に携わり、自身も胎内被爆をした男性が小頭症被爆者に向けて発した言葉が胸に刺さった。

 原爆の被害は決して過去のものではなく、今も続いている。援護行政の不足や、被爆者、障害者への偏見と差別が根強くあるためだ。小頭症被爆者の訴えは重い。

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