耳を澄ませたい昭和史の声|早坂隆 時代が令和となり、昭和が遠くなるにつれて、先の大戦に関する議論も「机上の空論」になりつつある。そんないまこそ、改めて戦争体験者の生の声に立ち返るべきではないだろうか。  

私はこれまでに大東亜戦争を中心とする昭和史の取材を20年ほど続けてきた。そのような取材を通じて得た「昭和史の声」は、現代を生きる日本人にとって貴重な教訓であり、忘れてはいけない精神遺産だと思う。時代が令和となり、昭和が遠くなるにつれて、あの戦争に関する議論も「机上の空論」になりつつある。そんないまこそ、改めて戦争体験者の生の声に立ち返るべきではないだろうか。

今年は戦後75周年という節目の年である。改めて戦争体験者の生の証言に耳を傾ける良い機会とすべきであろう。

取材でお世話になった方々の多くが、いまでは鬼籍に入っている。彼らの「遺言」に耳を澄ませてほしい。

南京戦参加者が語る

昭和12年12月に勃発した南京戦に参加した経験を持つ島田親男さんは、中支那派遣軍野戦電信第一中隊の一員として、同月13日に南京市内(城内)に入ったという。 「城内には人の姿もなく、静まり返っていて、非常に不気味な様子でした。『がらん』とした感じです。結局、銀行だった建物のなかに第六師団の司令部が設置されたのですが、私はそこで通信業務を行うことになりました」

島田さんが続ける。

「南京に入って一週間くらいは、私も気が立っていたというか、興奮していたのでしょうね。夜もなかなか寝付けなかったのを覚えています。しかし、南京の市民は皆、安全地帯にとっくに逃げていますしね。城内ではのちに言われるような死体の山など、私は見たことがありません」 「安全地帯」とは、南京在住の外国人たちの手によって設けられた「難民区」のことである。

島田さんは日中両軍の間で激しい戦闘が繰り返されたことを認めたうえで、南京戦についてはこう振り返る。

「戦闘で亡くなった支那兵が多くいたのは事実です。それは本当に悲惨なことでした。しかし、のちに言われるような市民への30万人だのという大虐殺なんて、私はしてもいないし、見てもいません」 南京の各地で激しい戦闘があったことは、多くの一次資料からも裏付けられる。しかし、女性や子どもといった「市民」まで攻撃の対象とした「大虐殺」が本当に南京であったのか。島田さんは疑問を振り払うことができない。

また、第九師団歩兵第六旅団歩兵第七連隊の歩兵伍長として南京戦に参加した喜多留治さんはこう語る。

「14日から安全地帯へと入り、市民に紛れている便衣兵を探しました。この掃蕩戦にあたっては、連隊長から厳重に注意事項が示達されたのをよく覚えております。軍紀は非常に厳しいものでした。特に強調されたのは、一般住民への配慮、放火、失火への注意といったことでした」

便衣兵とは、軍服を脱ぎ捨てて非戦闘員を装った兵士のことである。便衣兵戦術は国際法違反であるが、南京戦ではこのような事例が相次いだ。喜多さんは安全地帯内の様子について、次のように回顧する。

「非常に多くの中国人が集まっていました。人々でごった返しているという感じです。多くの南京市民がこの安全地帯に流入していたのでしょう。戦場の修羅場という雰囲気ではなかったですね。私は中国人の警官と一緒にパトロールしましたが、死体がごろごろと転がっているなんて光景は、一度も目にしていません」

喜多さんが苦笑とともに言う。

「安全地帯のなかに、いろいろな露店が出ていたのを覚えていますよ」

喜多さんによれば、それらの露店はいずれも中国人が営んでおり、楫類を扱う屋台や、散髪を行う店などが数多く並んでいたという。

終戦後、南京戦は「南京大虐殺」として裁かれることとなった。極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷において、検察側はこう述べた。

「6週間に南京市内とその周りで殺害された概数は、26万ないし30万で、全部が裁判なしで残虐に殺害された」

「26万ないし30万」という数字は、中国側の一方的な主張に基づくものであった。結局、判決文にはこう記されていた。

〈幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。多数の婦女は強姦された後に殺され、その死体は切断された〉

島田親男さんは南京戦について、涙ながらにこう語った。

「南京戦で多くの犠牲者が出たのは間違いありません。それに関しましては、私も犠牲者の方々への鎮魂の思いをずっと抱き続けております。しかし、30万人と言えば広島と長崎の原爆被害者の数よりも多い。当時の私たちにそんな攻撃力があったとは到底思えません。証言のなかに多くのVSが混じっていることは間違いないのです。事実は事実として、正確に語り継いでほしい。なぜ、戦後の日本人は中国人の言うことばかり信じて、私たちの言葉には耳を傾けてくれないのでしょうか」

自分の身代わりに

西太平洋に位置するパラオ諸島は、大正9年から国際連盟の決定によって日本の委任統治領となった。

日米戦争が始まると、米軍はパラオ諸島南部のペリリュー島に目をつけた。これに対し、日本軍は迎撃態勢を細かく整備。さらに、島の住民に対して「他島への疎開命令」を発出した。ペリリュー島で指揮をとる歩兵第二連隊の連隊長・中川州男大佐は、同島で暮らす約800人の原住民と、約160人の在留邦人に対し、速やかに他島への退避を命令。この疎開指示によって、民間人への被害はほぼゼロに抑えられた。

パラオ共和国の元大統領で、ペリリュー島出身のクニオ・ナカムラ氏は、私の取材に対して以下のように明快に応じてくれた。

「私の父は伊勢市出身の船大工、母はペリリュー島の首長部族の出身です。ペリリュー島の島民は、米軍の上陸作戦が始まる前に、日本軍の命令によって他の島に疎開しました。私の家族はパラオ本島のアイメリークという場所に疎開したという話です」

1943年生まれのナカムラ氏に疎開時の直接の記憶はない。しかし、ナカムラ氏は次のように語る。

「私は先の戦争、特に当時の日本軍とその行動については、昔から大きな関心を持っています。なぜなら、もしあの時、一家で疎開していなかったら、おそらく私はいまここにいないのですから」

昭和19年9月15日、米軍の精鋭部隊である第一海兵師団が、ペリリュー島への上陸作戦を開始。島中に張り巡らせた地下陣地に籠もっていた日本軍は、海岸線に殺到する米軍を充分に引きつけたうえで迎撃を始めた。やがて白兵戦も始まったが、日本軍は無謀な「バンザイ突撃」を控え、戦線を山岳部まで後退させていった。海軍上等水兵としてこの戦いに参加していた土田喜代一さんは、上陸戦初日の体験をこう語る。

「その夜、壕のなかで陸軍のとある兵士から棒地雷を渡されたのです。海軍の私は棒地雷というのをこの時に初めて見ましたが、陸軍には以前からあったようですね。ちょうど刀の鞘を少し大きくしたようなもので、先端に爆薬筒が付いています。この棒地雷を持ったまま『戦車のキャタピラに体もろとも突っ込め』という話でした。やがて『米軍のシャーマン戦車が接近中』との情報が入りました。すると中隊長が立ち上がって、声を張り上げたのです。『いまから戦車攻撃、希望者3名、集まれ』と。 その時、最初に伍長か何かがパッと『はい、私、行きます』と答えました。それから、2人目が続いて手を挙げた。私は棒地雷を持ったまま、迷いに迷いました。すると、私の隣にいた小寺亀三郎という整備兵が『小寺一等兵、参ります! 死ぬ時は潔く死ねと両親から言われました』とこう叫んだわけですよ。 この小寺というのは『おテラさん、おテラさん』といつも周囲から馬鹿にされていた男なんです。おそらく実弾を撃った経験さえほとんどないんじゃないかと思う。そんな小寺が『参ります!』と言ったので、私は驚きました。私としては、小寺が自分の身代わりになったような、そんな気がしました。 決死隊となった3人は『行って参ります』と敬礼してから、一列になって壕から出て行きました。3人が壕を出て20分ほど過ぎた頃、物凄い爆音が響きました。無論、3人が壕に戻ることはありませんでした」

「日本を護るため。内地で暮らす家族や女性、子どもを護るため」

同じくペリリューの激戦を戦い抜いた陸軍歩兵第二連隊の軍曹・永井敬司さんは、戦場の光景を次のように回想する。

「怪我を負った兵士が『ウーン』と唸りながら、戦友に『早く殺してくれ』と頼む。戦友は『わかった』ということで、軍刀で突き刺す。それはもうひどい状況でした。腕や足を吹っ飛ばされている兵士もいましたし、頭部がなくなっている死体もありました。『天皇陛下万歳』という絶叫も聞きましたね」

永井さんはその後の戦闘で、迫撃砲の破片が右大腿部を貫通する重傷を負った。水や食糧も尽きたが、それでも永井さんは懸命に戦場を駆け巡った。永井さんをそれだけの戦闘に駆り立てたものとは何だったのか。

「日本を護るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子どもを護るため。それ以外にあるはずがないじゃないですか。私たちは『太平洋の防波堤』となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」

このような激闘に対し、昭和天皇からは「お褒めのお言葉」である御嘉尚(御嘉賞)が11度も贈られた。これは先の大戦を通じて異例のことである。

しかし、11月24日、中川大佐はついにパラオ本島の集団司令部に向けて、 「サクラ、サクラ、サクラ」 と打電。それは部隊の玉砕を告げる符号であった。

その夜のうちに、中川大佐は自決。同夜、残った将兵たちは最後の突撃を敢行し、同島における日本軍の組織的な攻撃は終了した。

しかし、実はその後もペリリュー島での戦闘は終わらなかった。日本軍の残存兵が、地下壕を駆使しながらゲリラ戦を展開したのである。彼らは昭和20年8月15日の終戦さえ知ることなく、島内での潜伏生活を継続した。その一人である土田さんは次のように語る。

「私たちは日本が敗れたことも知らず、ひたすら友軍の助けを待っているような状態でした。『米軍に見つかれば、必ず殺される』と固く信じていました」

土田さんが続ける。

「そんななか、『日本はもう負けている。アメリカに投降しよう』と主張する戦友がいましてね。しかし、その彼は結局、上官に射殺されてしまいました。本当にひどい話です」

彼らが状況を把握して投降したのは、終戦から1年半以上も経った昭和22年4月のことであった。

1万人以上の日本兵が参加したペリリュー戦であったが、最終的な生存者の数はわずか34名である。

モンテンルパ刑務所

いわゆる「BC級戦犯」とは、連合国側による軍事裁判の結果、戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、またはC項「人道に対する罪」を犯した者として有罪判決を受けた人々のことを指す。世界各地でBC級戦犯として起訴された日本人の総数は約5700人にものぼり、そのうちの約1000人もの人々が死刑を宣告された。

その一人である宮本正二さんは、第16師団歩兵第20連隊の一兵士としてフィリピンに出征した。フィリピン滞在中に難関の憲兵試験に合格し、マニラ南憲兵分隊に所属。しかし、昭和20年1月、米軍の猛烈な反攻が始まったことを受け、ルソン島の北方へ退避することになった。そんなある日、米軍から多くのビラが散布された。ビラには「戦争は終わった」と記されていた。

「最初は信じなかったんですがね。そのうちに、上官から正式に敗戦という事実を知らされました」

以降、宮本さんの長きにわたる収容所生活が始まった。いくつかの収容所を転々としたが、帰国の日は一向に訪れなかった。

終戦から実に3年近くが経った1948年6月、宮本さんはマニラの裁判所から突然の呼び出しを受け、「戦犯」としての起訴を告げられた。

「実はあまり驚くようなこともなかったんですよ。周囲にそういう仲間が大勢いましたから。その時は、そこまで重大な裁判になるとは思っていなかったのです」

宮本さんの裁判は、翌7月から始まった。起訴されたこと自体には驚かなかった宮本さんだが、起訴状の内容を確認した時には驚愕のあまりに身体が震えた。

なぜなら「マニラ近郊のアンティポロという町で、11人ものフィリピン人を不法に殺害した」というまるで心当たりのない容疑だったためである。「現地住民を虐殺した実行者」として、いわゆる「C級戦犯」の容疑者とされたのだった。

「憲兵隊に入る前の新兵の頃、たしかにアンティポロに駐留したことはありました。しかし、全く身に覚えがないことでした」

当然、宮本さんは無罪を主張した。

「自分の知らないことですからね。何か他人の話を聞いているような感覚でした」

起訴状にはその事件が起きた時期として「昭和17(1942)年9月或いは其頃」と記されていた。しかし、実際の宮本さんは、その時期にはすでにルセナという町へと移動していた。アンティポロに駐留していた「垣六五五五部隊岡田隊」から、ルセナの連隊本部に移っていたのである。

そんな宮本さんに対して、「この男がフィリピン人を殺したのを見た」と証言したのは、一人の見知らぬ老人であった。

「近くに住んでいたというおじいさんでした。結局、その証言がそのまま採用されてしまったのです」

8月13日、宮本さんに下された判決は「絞首刑」だった。

「諦めと言いますか、もはや衝撃もあまり感じませんでした。良く言えば『大悟』 『諦観』といったところでしょうか」

そんな宮本さんの移送された先が「モンテンルパ刑務所」であった。こうして宮本さんの死刑囚としての生活が始まった。

「あゝモンテンルパの夜は更けて」

宮本さんが刑務所生活に慣れてきた11月には、寺本徳次と中野静夫という2人の元兵士に死刑が執行されることになった。

「寺本さんとは同じ監房だった時期もありました。中野さんは憲兵隊の上官だった人です。フィリピンで『憲兵の中野中尉』と言えば、やり手で有名でした。そんな中野さんが刑場へ連れて行かれる際、鉄格子の前に立って私の名前を呼び、『おい、これから行くぞ。おまえ、しっかりせいよ』と言ったんです。中野さんは最後まで恬淡としていました。私はその時、何と声をかけたらいいのかわかりませんでした。結局、『そうですか』と言っただけ。その時、『日本語というのは言葉が少ないな』と思いました」

1949年11月には、新たな教誨師として真言宗宝蔵院の住職だった加賀尾秀忍がモンテンルパにやってきた。加賀尾は「助命嘆願運動」に尽力した。

1951年1月19日、14名の死刑囚が夕食後に呼び出された。当時の刑務所内では「減刑」の噂も立っており、周囲は、「減刑か、帰国だ」と沸き立った。

14名のうちの13名は「中村ケース」と呼ばれるセブ島での村人殺害事件の犯人とされた者たちだった。しかし、そのうちの少なくとも6名は、セブ島に行ったことさえなく、冤罪の可能性が強く疑われていた。宮本さんはこの時のことをこう語る。

「減刑だという声が上がったのですが、私のなかでは『執行ではないか』という不安も少しありました。とにかく心配で朝まで眠れなかったのをよく覚えています」

明け方、加賀尾が戻ってきた。そして、その夜に起きたことの一部始終を話してくれた。 それは、14名がそのまま処刑されてしまったという事実だった。ある者は、「天皇陛下万歳」と叫び、またある者は、「死にたくない」と絶叫したという。

この日以降、死刑囚たちは改めて死の恐怖に怯えるようになった。そんな彼らのために加賀尾が思い立ったのが「歌をつくること」だった。こうして収監者たちによる曲作りが始まった。

1952年9月、「あゝモンテンルパの夜は更けて」のタイトルで発売されたこの曲は、日本国内で大きな話題を呼んだ。歌ったのは当時の人気歌手、渡辺はま子である。

この歌を契機として、助命嘆願運動は一挙に拡大。同年12月には渡辺はま子がモンテンルパの地を訪れた。宮本さんが言う。

「小さなステージをつくって、花で飾りました。渡辺さんの歌を聴きながら、泣いている者も多くいました。皆で声を揃えて歌ったことを覚えています」

その後、「恩赦」というかたちで、収監者たちの帰国がついに決定。1953年7月22日、宮本さんたちを乗せた「白山丸」が、横浜港の大桟橋に着岸した。

日本を出た時、20歳だった宮本さんは、すでに32歳になっていた。(初出:月刊『Hanada』2020年10月号)

早坂隆

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