「異次元のマラドーナ」を体感 ディフェンダーとして4度対戦の加藤久

 11月25日に亡くなったサッカー界のスーパースター、ディエゴ・マラドーナ。1982年と87年に日本で計4度対戦したのが、日本代表の守りの要で長く主将も務めた加藤久(64)だ。ディフェンダー(DF)だからこそ体感したマラドーナの異次元ぶりや思い出を語ってもらった。(共同通信=名取裕樹)

日本リーグ選抜―南米選抜で、加藤久(5番)のタックルをかわして突進するマラドーナ=87年1月24日、国立競技場

 ▽何でも見ている

 一度、マラドーナが日本のゴールを背にしてボールを持った時、振り向かせちゃいけないと思って体を寄せたんです。彼は背中を向けたまま、こっちのことは何でも見ているように、僕の左足に体重が掛かった時に緩いヒールパスを通すんですよ。スパッとしたパスじゃない。僕の左足の外側をコロコロと転がっていく、スローモーションのようなボール。なのに体重が乗っているから左足を出せずに、転びそうになったのを覚えています。そんな選手はいないですよ。

 加藤は82年1月、日本代表とアルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズとの3連戦にフル出場し、1分け2敗(1―1、2―3、0―1)だった。マラドーナは弱冠21歳でボカの主将を務め、既に風格十分。第2戦で2ゴール、最終戦でも決勝点を決めた。87年1月には日本リーグ選抜で、南米選抜のマラドーナと対戦し、0―1で敗れている。

日本代表―ボカ・ジュニアーズの第1戦で、巧みにボールをさばくマラドーナ=82年1月16日、国立競技場

 DFとしては、相手は必ずどこかでパスを出すところを見るので、視線の先がどこかを読もうとします。でもマラドーナは見ていない。いや、どこかで見ているんだけれど、いつ見たのか分からない。読むための情報を与えてくれない。今で言うノールックパスとも違う。見ていないのに、何であそこに出すんだと。目ではなくて、まるで体全体が目になって見ているみたいでした。

 マラドーナが世界に衝撃を与えたのが、アルゼンチンを優勝に導いた86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会の準々決勝イングランド戦。自陣から60メートルをドリブルし、相手5人を抜いて決めたゴールは今も語り草だ。

W杯メキシコ大会準々決勝のイングランド戦で、5人抜きゴールを決めるマラドーナ(右から3人目)=86年6月22日撮影、メキシコ市(ロイター=共同)

 ▽ドリブルの先に道?

 ドリブルも軽くプレーしていて、体に触った記憶がない。身長は僕より低いから、体をぶつければこちらが有利になるのに、体を密着させなかった。だから彼とショルダーチャージをしたとかの記憶がない。

 有名な「5人抜きゴール」だって、周りに人がいないみたいでしょ。まるで彼のドリブルの技術を引き立たせるために、相手選手がスライディングをしたり、抜かれたりしている。というか、そんな風に見えてしまう。彼がドリブルする先に、道が空いているというのか―。

 88年8月、マラドーナはナポリ(イタリア)を率いて来日し、日本代表と対戦した。加藤は代表を退いていたが、会場の旧国立競技場でスーパースターと再会する。

加藤久

 ▽幸せをもらった

 あの試合は家族と見に行きました。まだ警備などもおおらかな時代で、正面入り口でチケットを受け取ると、知人がいてロッカールームの前まで行けたんです。すると、ちょうどマラドーナがウオーミングアップのエリアに出てきて、前の年に南米選抜と対戦した僕のことを覚えてくれていた。写真をいいかと聞いたら、一番下の娘を抱っこしてくれて、家族で写真におさまりました。

 彼が世界中の人々を魅了したのも分かります。彼に幸せをもらった人はたくさんいる。死去は本当に残念です。

 彼は人には分からないものを持っていた。まさに異次元。何とかなる感じを持てない選手でした。試合をやっていて不思議だったですよ。(敬称略)

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 かとう・ひさし 早稲田大から日本リーグの読売クラブ(後のV川崎、東京V)入り。闘争心と統率力あふれるセンターバックとして黄金時代の一翼を担い、日本代表では国際Aマッチ61試合6得点。Jリーグでは清水でもプレーした。94年の引退後は日本サッカー協会強化委員長やV川崎、平塚、京都の監督などを歴任し、今年10月からJ2京都で強化育成本部長を務める。18年に日本サッカー殿堂入り。

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