「五島子どもサミット」講演とパネルディスカッション 詳報

講演で不登校の息子2人を育てた経験を語る辻千穂子さん=五島市三尾野1丁目、福江総合福祉保健センター

●辻千穂子さん講演
子どもに「自己肯定感」を 親の受容が大切

11月29日に五島市で開催された「五島子どもサミット」(フリースペースつくしんぼ主催)では、つくしんぼ副代表で、過去に不登校の息子2人を育てた辻千穂子さん(64)=同市=が「子どもが教えてくれたこと」と題して自らの体験や思いを語った。

◆越えられない数センチの敷居
上の息子は今27歳、下は25歳。かつて不登校の息子2人を育てた親としての経験を語る。
長男は小学校1年の3学期から不登校になった。「おなかが痛い」とか「頭が痛い」とか言いだし、行き渋った。親として、はじめは「学校に行けば」と言っていたが、校門を見た途端に帰ってくる日が何日も続いた。でも、原因が分からなかった。「どうして行かないの」と問いただしたが、息子はうつむくばかり。私は「行け行け」と言うばかり。
そんなある日、長男が家を出てしばらくしても帰ってこなかったので、「学校に行ったんだ、よかった」と思った。当時私は、脳梗塞で倒れた父を自宅で介護していて、朝はばたばたと忙しかった。一息ついて、ふと窓の外を見ると、黄色いものが見えた。外に出て確認すると、1年生の長男が黄色い帽子をかぶって雪が降る中に立っていた。顔は真っ白。私自身、情けなさや、怒りを感じた。よその子は学校へ普通に行っているのに、うちの子は行けない。自分が負け犬のように思えて涙が出た。
次の日から、長男と一緒に学校に行くようにしたが、校門をくぐると、息子の頭がだんだん下がっていった。教室の前に行くと、顔も真っ青になっていた。教室のたった何㌢かの敷居をまたげず、脂汗が出ていた。それを見た先生は手を引っ張って、教室の中に入れようとしてくれたが、私は息子の具合の悪そうな顔を見て耐えられなくなって、「先生、帰ります」と言って帰った。そうは言っても、「学校には行かないといけない」と思っていて、長男を心の相談室や保健室に連れて行っていた。学校に行って、先生から「出席になりますよ」と言われると、親としては安心する。

◆生きているだけで
 そんなある日のこと、親としても感情の波があるから、長男がのんびりしているのを見て、頭にきて怒ったことがある。すると6、7歳の子どもが出す声かと思うような「うおー」という声を出して、ふすまを破って暴れまくった。身もだえするというのは、こういうことかと。長男は泣きながら、「俺なんかいらんとやろう。学校に行かない俺なんか死んだ方がよかったい」と言った。私は思わず長男を抱き締めて、「違う、違う、ごめん。生きてるだけでいい、学校なんか行かんでいい」と言った。そして自分の言葉に、ふと気付いた。「そうよね、命をかけてまで学校に行かなくていいよね」と。その時から、不登校の親としての学びが始まった。

◆親の心が映るんです
 次男も小学2年生の2学期から、不登校が始まった。保健室の先生から、純心大(長崎純心大)のカウンセリングを受けてみないかと言われて受けた。介護していた父をショートステイに入れて、長男と次男を連れて長崎市へ。カウンセリングの時には、1泊して映画なんかも見ていた。
その頃、ACジャパンのCMで「親の心が映るんです」という言葉があり、それを言うのが息子たちの流行りになっていた。カウンセリングでも息子が「親の心が映るんです」と先生に言った。先生は私に、「まさしくそうですよね」とおっしゃった。
考えてみたら、私も確かに父をショートステイに預けて長崎市に行くと、すごく気が楽だった。父は、長男が保育園年長の時に倒れて半身不随になったから、長男が小学校に上がる時や、学校に行きだした時の不安や期待を、ゆっくり聞いてあげる余裕がなかった。それが全てとは思わないが、一部にはそういうこともあったのかなと思う。

◆子は何十倍もつらい
長崎市の不登校を考える親の会にも行った。神戸から広木先生(広木克行神戸大名誉教授)がいらっしゃって、不登校の親の相談に乗ってくれる。グループカウンセリング。親同士で話すとすごく気が楽で、同じ悩みがあり、共感できた。広木先生は「子どもが不登校になって苦しいでしょう。でも子どもはその何十倍もつらいんですよ。そこを分かってあげてください」とおっしゃった。
次男は私に、よく無理難題を言ってきた。仕事中も「あれ買ってこい」、コンビニがない時代だったが夜中に「あれを買ってこい」と。広木先生にどうしたらいいか聞くと「それはお母さんを試しているんですよ。俺みたいなやつを見捨てないでくれるのかと。だから全部してあげてください」と言われた。それから、次男に「買ってこい」と言われると、一応外に出て行って、息子に「ごめんね、店が閉まっていて買えなかったよ」と言った。すると次男は「ああそうね」とあっさり納得した。子どもなりに試し方があって、私は試されているんだなと思った。
そういう親の会がいいなと思って、五島でも2002年に「あかね会」という親の会をつくり、不登校の親と月に1回話し合っていた。

◆不登校はSOS
佐世保では2004年6月1日に同級生殺害事件があったが、同時期にNPO法人ふきのとうが佐世保で子どもサミットを始めたので、それにも行き始めた。息子はそこに3回出演した。立命館大の高垣先生(高垣忠一郎名誉教授)が司会をしてくれて、今日のようにディスカッションをする。
高垣先生は「自己肯定感が大事」とよく言っていた。自己肯定感を養うためには、受容される経験が大事だと。「親はそのままを受容してください」と言っていた。
息子は子どもサミットに3回出て、確か中1の時に「僕はなぜ不登校になったか分からない。でもお母さんが分かってくれるまでは、ずっと苦しかった。何度も死にたかった。不登校は僕のSOSだったと思っている。でもSOSを言えずに学校に行っている人がいる。その子に気付いてあげてください」と言った。

◆自分で気付く
 長男が中学3年の時、「高校には行った方がいいよね。俺が行く高校があるのかな」と言い出した。長男は自分で、校則や制服がない福岡の学校を探してきた。担任は生徒が選ぶ。オープンスクールで、先生になぜ校則がないのか聞くと、学園長は「もう大変ですよ。不登校を経験した生徒が、ずっと座って授業を聞くことは難しいし、歩いて回ったりおしゃべりは当然。でも、次第に落ち着いてくる。自分でこうしたら授業にならないな、と気付いてくる。それが大人になるということではないか。この学校はそう考えて、校則がない」と教えてくれた。
私はそれに納得して、この学校に預けたいと思った。息子も気に入って行くことになった。長男は中学の時、入学式に制服を作って、あとは卒業式の1回しか着ていない。式には出なかったが、校長室で卒業証書をもらった。福岡では1人暮らしをして、アルバイトしながら通学した。

◆それぞれの「ちゃんとしよう」
 次男の受験について。次男は長男と違って、やんちゃ系の不登校だった。髪の毛を染めたり、ニッカポッカをはいたり、ピアスをしたり。けれども、「高校には行く」と言った。これも本人が福岡の高校を探してきた。次男は受験の時、髪は黒だったがピアスをしていた。次男は私に「ピアス取った方がよかよね」と聞いてきたが、私はかっこつけて「付けとけ、ありのままを見てもらえ」と言った。当然不合格。でも、この学校のすてきなところは校長の手紙が不合格通知に入っていたこと。手紙には「辻君は元気そうに見えた。この学校は不登校で元気がない人を、優先的に入学させようと思います」と書いてあった。ありがたいなと思った。
 次も福岡にある高校を見つけた。親子面接の教室の壁に一枚だけ紙が貼ってあって、息子が面接官に「あれなん?」とため口で聞いた。そこには「ちゃんとしよう」とたった一言書いてあった。先生は、「あれは僕のちゃんとしようと、君のちゃんとしようと、お母さんのちゃんとしようはそれぞれ違うよね。それでもいいから、ちゃんとしようという意味だよ」と教えてくれた。次男は「ここに決めた」と言った。どうにか合格して、ここに行くことになった。次男はやんちゃ系だったから、中学の卒業証書は渡り廊下でいただいた。次男も1人暮らしをして、アルバイトをしながら通った。次男はバイトが楽しくなって、高校も不登校気味だったが何とか卒業した。
長男は大学に進学。次男は勉強は好かんと言って、地元で就職し、今は東京にいる。長男は大学を卒業して横浜で働き、今は五島に暮らしている。こうして2人が学生を終えた時点で、不登校の親としての経験は終わった。

◆自分で築いた「壁」
 いろいろな経験をしたが、父の言った言葉が頭に残っている。私も介護で気分の浮き沈みがあったが、ある日、寝たきりの父が腕を押し出したり引いたりしながら「目の前は真っ暗やろ。壁みたいやろう。でも壁を突き破って向こうに行ったら、うそのように晴れとるとよ」と言った。その時には、私も父も一緒に泣いた。後から分かったが、その壁は私がつくった壁だった。常識やプライド、世間体などを積み上げて、自分自身が越えられなくなっていた。それを私自身で「自己肯定」することで壁が破れた。そうしたら、うそのように晴れた世界があった。それも子どもが不登校になったおかげで、「自己肯定」を勉強するようになって、気付いたこと。

◆「元気」という仮面
 次男はやんちゃ系で、何人も家に友だちを連れてきていた。私は理解しようという努力をしたし、まずは受け入れようと思った。7人くらい遊びに来て、玄関で靴をばらばらにしていたが、私は「歓迎している」と伝えるために毎回靴を並べた。受け入れてみると、やんちゃだけどいい子で、それぞれに悩みも抱えていた。それを理解するのは大事だなと思っている。
県内では「心を見つめる」運動などがあるが、私が心配なのは元気のない子。運動で「みんな元気に返事をしよう」、「一緒にあいさつをしよう」となると、元気がない子でも、「元気」という仮面を一瞬付けないといけなくなる。すると子どもを見ている方は、その子が本当に元気かどうか分からなくなる。SOSが感じづらくなるのではないかと心配している。

◆愛情の「足し算」
親は子どものことを愛しているが、愛情の大きさは違う。ちっぽけな愛情しかもらっていない人もいる。虐待を受けている子もいる。でもちっぽけな愛情に、他の人が少しずつ足すことで、少しずつ大きくできないかと考えている。
そんな中、五島で月に1回の「なかよし食堂」を開いている。最初は貧困の子どもに向けた「子ども食堂」を考えたが、月1回だけおなかいっぱいになったところで何の役にも立たない。でも、誰かと一緒に食べることは大事かなと思った。家庭で暴力や暴言を受けている子が、よその家庭を見て、何か違うと気付くかも知れないし、他の人が愛情を与えられるチャンスではないかと考えている。毎月第2土曜の11時半から1時半まで(五島市栄町の「なごみプレイスつぼうち」で)開いている。いろいろな人がくるが、すてきな場所。何よりボランティアの私たちが、心を裕福にしてもらっている。

◆分からないなりに
 不登校というと、簡単に、「あー親が悪い」とか、「怠けやろう」と片付ける人がいる。分からないから自分の分かる範囲で理解するんだろうから、それを否定することはできない。でも、分からないなりに、どうしてそうなんだろうと親に聞いてもらったり、今日のように当事者の子どもの声を聞いてもらったりすることが必要なのかなと思う。若者たちは、大人が学ばなければいけないことを、いっぱい教えてくれる。

★不登校や引きこもりに関する相談先一覧は「不登校ひきこもり情報たーみなるinながさき」(https://nagasaki-hikikomori.net/)。県内各地の支援団体が掲載されています。


●パネルディスカッション
経験者が伝えたいこと 学校、親、そして社会へ

五島子どもサミットでは、かつて不登校や引きこもりを経験した10~30代の若者5人に辻千穂子さんが加わり、パネルディスカッションも行われた。司会はフリースペースつくしんぼ代表の草野久幸さんが務めた。

◎パネリスト紹介

花浦紀章さん 五島市出身の32歳。つくしんぼ副代表。小中学生時代にいじめを受けて不登校を繰り返し、高校1年の夏から9年間の引きこもりを経験した。現在は同市内の介護施設の厨房で働いている。

怜さん(仮名)  五島市出身の20歳。小学生時代に教員から激しい体罰を受けた経験がある。中学生の時、人間への不信感などから不登校になり、高校は中退。現在は五島若者サポートステーションを利用している。

ジュンさん(仮名)  県立五島高の定時制に通う18歳。五島市出身。小学校は小規模校だったが、中学時代に大規模校へ転校したことを機に不登校気味に。現在はアルバイトをしながら高校に通う。趣味はギター。

タツヤさん(仮名)  県立五島南高3年で18歳。県内出身。小学6年で持病がひどくなり、中学では学校を休みがちに。高校卒業後は溶接工を目指し、専門学校に進学する。

シンジさん(仮名)  県立五島南高3年で18歳。県内出身。中学時代に教諭と気が合わずに学校を休むようになり、自宅で運動したり塾に通ったりしていた。高校卒業後は写真家を目指し、専門学校に進学する。

草野  パネルディスカッションでは、過去に不登校やいじめ、引きこもりの経験がある若者、そして不登校の子を育てた親に登壇してもらっている。五島にも学校に行けていない子どもがたくさんいる。まずは不登校というものを知ってもらい、このサミットの副題にもあるように、「不登校って悪いこと?」と皆さんに問い掛けたい。まずは自己紹介から。

◆学校は何のため?

花浦  介護施設の厨房で働き、副業でギタリストをしている。つくしんぼ副代表。奈留島出身で、保育園から高校までメンバーが一緒だった。一度いじめられると変わらない。小学校からいじめられ、不登校に。中学生でもいじめがひどくなって、中学1年はほとんど行かなかった。中学2年でクラス替えがあって、ある程度学校に行けた。中学3年でもある程度行けた。高校に入学できたが、高校でも再びいじめがひどくなって、高校1年の夏休み入る前には完全に学校に行かなくなった。そこから26歳まで9年間引きこもりに。外出して知り合いに会うのも怖かった。ひきこもりを脱したのには、趣味のギターに出会ったことが大きかった。

怜   小学校の時、教師から体罰を受けていて、顎が外れて変形したこともあった。1年間、陰で暴行を受け、1回我慢できずに校長に話し、教師が呼び出されたこともあった。「学校に行きたくない」と思うこともあったが、弱く見られるのが嫌で、小学校はずっと通っていた。中学校に上がって、先生への不信感、人間不信もあり、登校していない日が200日を超える時もあった。無理やり連れに来る先生に不信感があった。高校は定時制に入ろうと思っていたが、行きたくない別の高校を受けさせられた。受からないように勉強せずに試験に行ったが、なぜか受かってしまい、精神的に不安定になった。身投げしようとしたこともあり、限界だと感じて高校1年で辞めた。辞める時に五島若者サポートステーションを紹介してもらった。人間不信は完全になくなってはいないが、人と触れ合うことも大事だと思い始めている。

ジュン 小学校は小さな学校で、同級生は5人だけの複式学級。小学校は普通に楽しく過ごしていたが、中学1年の二学期くらいに、規模の大きな中学校に転校した。慣れない大人数の教室が怖かった。テニス部だけが唯一居心地の良い場所だった。学校に行くのは部活のため、というような生活をしていた。中学2年の途中からテニスに身が入らなくなり、学校に行くモチベーションもなくなった。友だちは他のクラスにいて、給食までの時間が苦痛だったが、多少がまんして行っていた。でも行きたくない日が増えて、中学2年の後半くらいから不登校になり始め、ひたすら家でゲームにはまっていた。中学1年から同じ教室だった友だちも不登校になり、一緒に学校を休んでゲームで遊んでいた。その時は、気が楽だった。それでも罪悪感というか、学校に行っていない不安感があったが、ごまかしながら過ごしていた。中学3年で高校をどうしようかと考えて、定時制を選んだ。入学したのはいいけど、学校に行く癖がなかったから、最初は不登校になった。でも今は1人暮らしして、バイトと学校に行っていて、趣味で始めたギターにはまっている。頑張って打ち込めることがあり、学校にも行けている。

タツヤ 五島南高3年。小学6年で持病を発病して、学校に行く日よりも病院にいる日が多かった。学校に行っても、「何のために勉強するんだ」と思って、勉強する意味が分からなくなった。中学2年の時に持病がひどく、よく倒れたりしていた。親は学校に行かなくても、特に何も言わず、代わりにイベントとかに連れていってくれた。

シンジ 五島南3年。来年から専門学校に進学する。中学2年の後半から先生と気が合わず、学校に行けなくなった。友だちとは仲が良かった。家では運動したり塾に通ったりして、高校に進学できればと思っていた。親に五島南を勧められて進学。五島南の3年間は濃い3年で、周りの人や親には感謝している。

◆「居場所」がない

草野  不登校のきっかけは。不登校中はどのように過ごしていた?

花浦  きっかけはいじめ。ネットゲームにはまって、友だちとネットでつながったりしていた。外出するのも、ゲームを買いに行く時だけだった。

ジュン 学校になじめなかったのがきっかけ。もともと少人数の小学校にいたので、人が多くわちゃわちゃしているのが嫌いだった。「自分の居場所は学校にない」と感じていた。その頃は、親が学校にいけというのを無視して、イヤホンで音楽聴いたりゲームしたりしていた。

タツヤ 学校に行く意味が分からなかったのは、まず勉強ができなかったのと、勉強したところで何になる、という思いがあったから。

シンジ 学校に行かないからといって、家にずっと引きこもるというのは、自分は嫌だった。運動したり塾に行ったりして、高校に行ける程度の能力は持っておきたいと思っていた。中卒だと今後厳しいなという自覚があったので、高校に入るための準備をしていた。

草野  不登校の時に、親や家庭がどんなサポートをしたのか。嫌だったか、救われたか。

花浦  うちの親には、「高校には行っとけ」と言われた。でも学校というものが嫌で、今も生徒側の立場で行くのは嫌。中学の先生が家に来るのが嫌だった。高校でも家庭訪問に来るが、放っておいてくれと思った。人と会うことすら嫌だったので。

◆学校の〝におい〟

草野  不登校の子に対して、学校の先生もいろいろ対応したと思う。本人や親としてどんな気持ちだった?

辻   はじめは親として「申し訳ないですね、ありがとうございます」という対応をしていたが、子どもたちは逃げるような対応。できれば先生に会いたくないし話したくないようだった。後で分かったが、学校のにおいがするのが嫌だったそう。学校のプリントを持ってきたりしていたのが嫌だったみたい。「そうではなくて、近所のおじさんみたいに、よう元気かと来てくれれば良かったのに」と息子は言っていた。

ジュン 学校から家に電話がかかってきていた。自分が出るわけもなく、学校の先生が家まで来てノックしてきた。俺の名前呼んでいて、取り立てに来られた気がした。ちょっと距離を詰めすぎている先生もいて、そういうのは嫌だった。

タツヤ 自分も家まで来られた。何も借りていないのに取り立てみたいに。中学1年の時の先生は、ドラマ「ごくせん」に憧れているような先生だった。ブーンと車でやって来て、「おいタツヤなんしよっとか」と言って、制服着せられて「ちょっとドライブに行くか」と。途中でプリンを買って、先生と話していた。先生がかっこつけて、眺めのいい方を見てしゃべったりしていて、僕は「そうですね」と。取りあえず早く帰りたかった。

シンジ 中学2年の時の先生は関わりづらくて、話はしていなかった。中3の時の先生は、日常会話をしていて楽しいという感覚はあった。

怜   自分自身は負けず嫌いで、誰かと勝負となると、むきになる。先生がものすごく嫌いだったから、殴られても泣きもせずサンドバッグになっていた。親にも迷惑をかけたくないという気持ちがあって相談しなかった。

◆適度な距離感は人それぞれ

草野  親や教師にどんな対応をしてほしかった?

花浦  僕の親は理解してくれた。高校に行ったほうがいいとも言ったが、そっとしてくれることもあった。いい親だった。先生は、学校に来いという名目で家に来る。悩みは聞きに来ない。先生にはもっと、ちゃんと話し合ってほしかった。

怜   親に教師の体罰を言ったら、ものすごく心配する。自分から言わずに小学校生活を送っていた。先生は、話を心から聞こうとしないのが目に見えていた。でも思うことが顔に出ている子がいるから、そういう子にも目を向けて話を聞いてほしい。

ジュン とりあえず関わらないでほしかった。なぜかというと、不登校をしていて、自分だけかもしれないが、たまに「学校行ってみようかな」という気持ちになることもあったから。迎えに来たりせず、電話で「元気してる?」くらいだったらよかったなと思う。

シンジ 自分もそっとしてほしかった。自分がやるべきことは自分で行動していたので。先生という立場上、登校させないといけないかもしれないが、そっとしておいてほしかった。

草野  辻さんは親として考えれば、今どう対応すべきだったと思う?

辻   息子2人は小学校低学年から不登校だったので、「このままずっと学校に行かないのか」と焦った。でも親が理解しよう、受容しようとすることで、子どもたちは楽になり、いつかは旅立っていくことが分かった。学校の勉強は、テクニカルスキル。でも不登校の子どもは、人に共感する気持ちを不登校の間に学んでいて、ヒューマンスキルがすごく高いと思っている。

◆「変わりたい」思いも

草野  どういう経緯で今があるのか。

シンジ 母に五島南高への進学を勧められた。オープンスクールで、五島の景色の奇麗さ、自然の豊かさに感銘を受けて、ここで3年間過ごしたいと思った。一緒に入学した不登校経験者と一緒に生活していたが、全員が面白いやつらで、自分も成長しているという自覚があった。でも中には学校に行けなくなる子もいて、どう自分が関われるのかとか考えていた。自分も学校にいかない経験があったので、学校に行けない友人にどう関わるか、深く考えていた。友人が辞めてしまったのは、自分として後悔もある。

タツヤ 地元の工業高は出席日数が足りなかった。五島南高なら行けた。中学3年の担任の先生が五島南を勧めてくれた。シンジに出会って、魚津ケ崎(五島市岐宿町)の景色にも出合って、「行けるんじゃないか」と思った。中学までは薬が合わなくて人に当たったり、夜中に外に出て発散していたが、そういう自分から変わりたいと思った。将来のことを考えると、今のままじゃいけないと。学び直しができるところがいいと思っていた。

ジュン 定時制に入って、すぐにちゃんとできたわけではない。高校は働きながら学校に行こうと、軽いノリで選んだ。実際にやってみて、両立はすごく大変だった。今の生活までいろいろあった。例えば、朝のバイトも最初はサボり気味。学校もそれに比例して行かなくなった時期があった。何のきっかけか思い出せないが、また学校や仕事に行くようになった。自分が打ち込めることを見つけたのが、すごくよかったと思う。中学の時は、テニスに打ち込んでいたので楽だった。今はギターを弾くようになり、遅刻気味だった学校にも仕事終わってから早めに行って、教室でギターの練習したり、ギターについて先生と会話をしたりしている。

草野  辻さんから若者に聞きたいことは?

辻   シンジさんは、五島南高にいろいろな友人がいて、受け入れようと思ったと。「みんな違ってみんないい」というのを実践しているなと。でも、周りってそう見てくれない。そんな中で、学校生活に楽しみを見つけられず、学校からいなくなった人にどう思うか。

シンジ 学校に行けなくなって辞めた子も、高校を卒業してほしい。五島南高では、みんなで笑顔で卒業したいという思いがあって、自分は同級生を朝起こしたり、鍵を開けて説得したりしていた。それでも自分たちが2年生になる頃には学校に行けなくなった。自分にも、他にできることがあったのではと後悔したこともあったが、それは辞めた子にも迷惑で失礼。そいつらはそいつらで考えていることも、頑張ろうとしていることもあるから、それについて諦めずに頑張ってほしい。

辻   時間がかかる子もいる。シンジさんの友だちもそれぞれに、きっといつか楽しい時が来るだろうなと思う。

◆今に至る「準備期間」

草野  辻さんの講演で「不登校はSOS」という話もあった。不登校を経験し、自分が不登校だった時の意味をどのように考えるか。

花浦  今、人生がすごく楽しい。人に恵まれているなと思う。その時に出会わなかった人がたくさんいる。引きこもりだったが、今は人前でギター弾いたり、テレビや新聞に出たりしている。その準備期間だったのかなと思う。

草野  先生にはどうしてほしい?

怜   親身に話を聞いて、趣味まで受け入れてほしい。趣味を否定されるとつらい。楽しみを持っていたいという思いがあるので、そこも受け入れてほしい。

草野  つくしんぼでも、もっと相談しやすい方法はないかと考えている。どうすれば相談しやすい?

花浦  自分も支援する側になっているが、いくら経験があっても、その子と自分の経験は違うので難しい。でも相談できるまでに時間がかかるので、それまでずっと関わっていてほしい。

 パネリストは会場からの質問にも答えた。

質問  当時、周囲から言われてうれしかった言葉は?

花浦  あまり思い出せない。

ジュン 母の「好きにしたら」という言葉が、気持ちを楽にした。例えば1人暮らしする時にも、軽いノリで「好きにしたら」と答えてくれたのが楽だった。取りあえず否定はしないで、気楽に話す感じが響いた。

タツヤ 自分は反抗期と、持病のイライラが重なって親とも話していなかったが、休んでいても何も言わなかった。友だちが迎えに来て一緒に遊びに行く時にも、親が「行ってらっしゃい」と言ってくれるのが良かった。

シンジ 親や先生に本音は言わなかったし、期待していなかったので心に響く言葉はなかった。友だちが「学校に来い」と言うのではなく、無駄話や学校であったことなどを話してくれるのが楽しかった。

質問  どんな学校なら行けた?

ジュン 先生って「生徒を大事にする」感じがあふれている人が多い。「分かってあげるよ」ではなくて、「話したかったら話せば」という距離感の先生がいたらよかったなと思った。

質問  タツヤさん、シンジさんは、何が得意?

タツヤ 旅行とサイクリング、音楽が好き。高校2年の時に海外ボランティアでタイに行った。挑戦することは大好きで、去年も弁論大会でステージに立たせてもらった。

シンジ 自分は高校1年の時にカメラを触る機会があって、写真が好きになった。進学先も映像写真の専門学校で、写真家を目指している。高校1年から写真を撮っていて、今は写真が生きがい。

質問  これからの進路は?

タツヤ 溶接の道に進みたい。ものづくりが小さい時から好きで、手先が器用。プラモデルとかたくさん作っていた。溶接工になって、五島に来るまでは知らなかった船などを、利用する側から提供する側になりたい。

シンジ 写真家になりたい。まずは商業写真家としてウエディング写真や、企業に頼まれた写真を撮りたい。そこで顔を広めて、その後は自分が好きな芸術写真家として、アフリカの民族や紛争地帯など、いろいろなものを撮りたい。

◆自然に助けられた

質問  不登校や引きこもり経験を振り返って、今悩んでいる人に一言声掛けを

花浦  今関わっている子もいるが、学生時代は家と学校だけの世界。それ以外は、塾や習い事がないとつながれない。でも、もっと世界は広い。もっといろいろな人とつながって、同年代とかお兄さんお姉さんとつながってほしい。

怜   自分は自然に助けられたことがあるので、自然と触れ合ってほしい。あとは我慢をしないでほしい。

辻   今のままでいいよ、と言いたい。

ジュン 学校の友だちではなくてもいいから、同じ不登校の境遇の友人でもいいから、誰かしゃべれる人を見つけてほしい。難しいが、ちょっとしゃべってみようかなという気持ちでいてほしい。

タツヤ 不登校はマイナスに捉えられることもあるが、あまり考えすぎないほうがいい。

シンジ 「不登校は才能だ」と言っている人もいる。不登校の人は感受性が高かったり、周りが見えていたりするので、才能をつぶさないためにも好きなことをしてほしい。周りに支えられていることを理解して、今ではなくて良いから最終的には感謝してほしい。

質問  不登校の子がいる親に対してメッセージを

辻   聞いてくれる人、共感してくれる人に親が吐き出し、まず親が受容されることが必要。その上で、子を受容することができる。

質問  ジュンさんは、まれに学校に行きたくなることがあったのはなぜ?

ジュン 他を知らないので自分の意見だが、不登校になって少したつと、このままでいいのかなという気持ちが湧いてくる。このままじゃやばいと思える時が来る。不登校の最初の方は、関わらないでほしい。学校に行きたいと思うのは、機嫌が良い時。家の中で普段は会話もしないけど、なぜか家族と話したりして学校に行ってみようかなと思う時が来る。

◆人とのつながり絶たないで

草野  最後にどうしても言いたいことを

花浦  人とのつながりを絶たないでほしい。僕は絶ってしまった。今はつながりを感謝している。

怜   一番大切にしてほしいのは、自然との触れ合い。家の中でゲームをするより、自然に触れることが大切だと思う。

ジュン 不登校の生徒に言いたいことは、「行きたくないなら行かなくていい」。ちょっと行ってみようかな思う気持ちは、ときどきあるかもしれない。その気持ちを大きくして、行ってみようかなとポジティブに考えてみる。ネガティブな考えはしない。

タツヤ 意志を強く持つこと。周りを見て柔軟な考えを持つこと。

シンジ 自分の好きなことを真剣にやってほしいと思うし、それをする上で周りに感謝するということを頭に入れてほしい。

草野  学校に行けていない子がたくさんいる。これだけの多くの人が最後まで聞いてくれたので、必ずSOSに気付くことができると思う。学校に行くことだけがいいことではない。少しでもSOSに気付いてあげられるようになれば。

不登校を経験した若者らが、学校や家庭、社会などに対する思いを語り合ったパネルディスカッション=五島市三尾野1丁目、福江総合福祉保健センター

© 株式会社長崎新聞社