慰安婦問題に関連した国連クマラスワ報告書に対する反論|眞明行 韓国の日韓友好市民団体「反日銅像真相究明共同対策委員会」と、韓国の代表的な実証歴史論客「真明行の歴史チャンネル」が共同で作成した国連クマラスワ報告書に対する大反論。

反日銅像真実究明共同策委員会・真明行歴史チャンネルの「慰安婦問題関係国連クマラスワミ報告書に対する反論」原文

本報告書は慰安婦問題関係国連クマラスワミ報告書に対する反論として、韓国の韓日友好市民団体である「反日銅像真相究明共同対策委員会」と、韓国の代表的な実証歴史論客である「真明行の歴史チャンネル」が共同で作成したものである(主たる内容は全て「真明行の歴史チャンネル」が記述した)。この報告書は、日本政府の国連クマラスワミ報告書に対する公式反論よりも事実関係の側面ではより緻密な内容で、後日、英語版に翻訳公開される予定である。(写真とキャプションは全てメディアウォッチ編集部が作成した)

1. 序論

「反日銅像真実究明共同対策委員会」・「真明行の歴史チャンネル」が共同で国連クマラスワミ報告書に対する反論書を提出するようになった理由を、まず明らかにする。

(1)クマラスワミ報告書は学術的な研究の成果や客観的な資料に立脚せず、報告者の先入観に基づく仮説を導き出すために歪曲された証言と創作、歴史的根拠が不十分な虚構の資料を証拠に選び、報告書全体の信頼を落とし、国連機構の権威を損傷したため、これは即刻撤回すべきである。

(2) 韓国と北朝鮮、中国では、慰安婦問題を終戦後、日本との外交問題に利用し、国家権力の政治的な名分と支持を得るための方便として利用されているが、これによって何が事実なのかを究明し歴史的な合意を遂げる上で、大変な障害となっている。

(3) クマラスワミの報告書は、中立的な調査や研究もせず、特定陣営の論理に加担することで、問題の解決ではなく葛藤を深化させる悪材に活用されている。これは国連の精神に反するので、この報告書は撤回し原点から再検討すべきである。

アリランTVのインタビューに出演したクマラスワミ(Radhika Coomaraswamy)

2. 争点

(1) 慰安婦問題に対する認識

韓日間の歴史問題を解決するためのもっとも基本的なアプローチは、「何が事実か」に対する合意に基づき「この事実をどう見るべきか」という解釈の問題に転換していくのが望ましい。

だが、韓国では事実を度外視し、当為の問題に執着する。まず評価を下し(結論を先に決め)、その結論を立証するために資料を収集する演繹的な方法を数十年間、政府と公共団体の支援で蓄積してきた。

慰安婦被害者の証言は如何なる検証もされず、『事実』として受け入れられている。甚しきは、同じ人物による証言が時期ごとに内容が異なっていて矛盾があっても問題とされない。専門研究家と称する者たちは慰安婦の被害像を必要以上に誇張し、日本の責任と完全な屈服を目的として国際的連帯を始めとする、莫大な予算を支援され、消耗的な活動をしている。

皮肉にも韓国と日本国内の慰安婦活動家、団体、またはこれらを支援する国家権力の中の一部は慰安婦問題が終結するのを望まない。彼らは慰安婦を始めとする歴史的葛藤問題が自分たちの存立目的を生計化するpro-job(専門職)の手段になった。彼らのプロパガンダに忠実な資料が、まるで真実であるかのように無差別に流通されている現実に照らし合わせて見る時、クワラスワミの報告書もこれらの資料の影響を受けた痕跡が濃厚である。

すなわち、国連クマラスワミ報告書は国際社会の自主的な調査ではなく、韓国、北朝鮮そして日本の朝総連関係団体側が一方的に提出した資料を基に、学術的な検証すらなく受容した不誠実な報告書といえる。

(2) 慰安婦被害者の証言と検証の問題

(a)韓国では1992年、金学順の慰安婦被害証言を皮切りに慰安婦問題が国家的な論点となった。その後、彼女たちを支援する団体が生まれ、これらの団体が現在は政界と繋がりを持つ巨大な権力になっている。

(b)最初の証言者、金学順は日本軍によって強制的に慰安婦にされたように韓国で知られているが、実際は母親が彼女を妓生として売り、再度、養父によって中国に売られた、家族間の人身売買の典型である。

(c)これは、この時代の下層民の貧しさと家庭解体の結果であり、慰安婦が軍隊によって導入される以前から韓国社会に蔓延した人身売買と誘拐、略取とも関係がある。ただ主体が民間人か軍人かの違いに過ぎない。

(d)こうした社会的背景を度外視して、遊郭に売られたり詐欺によって売春に関わった様相を軍慰安婦に限定して考察すれば、その当時、女性たちが受けていた被害について合理的な考察が不可能になるだろう。

(e) 金学順の事例で見るように、慰安婦の証言は時期別に内容が異なり、自発的や就業詐欺によって募集に応じたことは否定され、日本軍や警察が介入したような歪曲が生じるようになった。証言はこうした記憶の間違いや歪曲を常に前提に置かねばならず、徹底的に検証すべきである。

3. クマラスワミ報告書の歪曲された根拠

(1)クマラスワミ報告書で根拠にした資料は、相当数が歪曲された証言に基づいている。

その実例が報告書21番パラグラフで言及されたミクロネシアでの慰安婦虐殺、27番と28番パラグラフでの吉田清治の証言に登場する奴隷狩り、16番パラグラフの慰安婦・呂福実の証言、54番パラグラフの慰安婦・鄭玉淳の証言、55番パラグラフの黄ソギュンの証言、56番パラグラフの黄錦周の証言が代表的な事例として議論できるだろう。

(2)報告書21番パラグラフ‘ミクロネシアでの慰安婦70名虐殺’

この報告書が採択されると、日本国内の多くの学者によって問題を指摘された部分である。この部分はジョージ ヒックス(George Hicks)の『慰安婦:日本帝国の性奴隷(The comfort women:sex slaves of the Japanese imperial forces)』(1995年)に基づいたもので、70人という数字は創作されたものであることが明らかになった。この本で引用されている金一勉の『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(1976年)にも70人という数字はない。秦郁彦教授の研究によればこの主張の起源は西口克己の1969年の小説『廓』に出てくる内容で日本軍がミクロネシアのトラック島,(chuuk Islands)で慰安婦を機関銃で撲殺したというものだ。こうした内容が国連報告書に載ったことは、国連の権威を失墜させることであり恥ずべき部分だ。

ジョージ ヒックス(George Hicks)の「慰安婦:日本帝国の性奴隷(The comfort women:sex slaves of the Japanese imperial forces)」(1995年)

(3)報告書27番、28番パラグラフ「吉田清治回顧録の奴隷狩り」

報告書は、大規模の強制的で暴力的な女性拉致が存在し、奴隷狩りの方法が用いられたと記述した。その根拠は1996年の吉田清治の回顧録である。この回顧録は日本国内の学者たちの徹底した検証によって虚偽であることが判明し、吉田清治が偽りであることを白状して、2014年度にこれを報道した朝日新聞で間違いであることを公式的に認めたことがある。報告書はこのように公式文献と資料が不在の状況で検証されない証言や回顧に依存することで被害事実を誇張し、水増しに集中している。

(3) 報告書16番パラグラフ「呂福実の証言」

報告書は16項目で女子挺身隊と慰安婦を無理に関連させる誤謬に陥っている。挺身隊は一定の学歴と基準を持つ女性で、短期間勤務に動員されたが、慰安婦被害者たちは大部分無学、妓生、家政婦、料理屋で生計を立てていた女性で、挺身隊徴用対象とは距離がある。

また慰安婦として連行される前、軍人たちが父母の前で強姦したとか、抵抗する父母を暴力で制圧したということは証言による一方的な陳述で、記憶の歪曲または嘘や誇張であり得ることを全く勘案しない無理な断定だ。

この実例で呂福実は日本人巡査と軍人4、5人が押し入って銃剣で脅し、抵抗する父親を制圧した後、連行されたと証言しているが、この日本人は創氏改名をした朝鮮人巡査、田中だと言っている。周知の通り、創氏改名は1939年11月に朝鮮民事令が改定され、1940年2月から受付が始まったことで、呂福実が拉致されたと主張する時点に創氏名田中という巡査が存在する可能性はない。

呂福実が天津から脱出する契機も挺対協の証言集では中国人通訳官の助けを得て秘密裏に脱出したとして出てくるが、1992年1月18日付国民日報インタビューを見ると、天津地域に公娼が入って、慰安所から解放され、中国現地をさまよったが朝鮮人通訳団の助けで帰国したと出ている。挺対協の証言採録と国民日報のインタビューはほぼ同じ時期に出たことで、証言内容が大きな差異を見せたのは証言を証拠にするには信憑性に問題があることを意味する。

(4) 報告54番パラグラフ「鄭玉順の証言」

報告書は北朝鮮に居住している慰安婦の証言を集中的に採択している。呂福実、鄭玉順、黄ソギュンであり、韓国内慰安婦は黄錦周一人だけだ。クマラスワミが北朝鮮出身慰安婦の証言に集中している理由は、その証言内容が残忍この上なく、ショッキングで、グロテスクで、劇的な効果を与えるためだ。しかし、北朝鮮の慰安婦たちは証言内容がほとんど官製証言である場合が多い。歴史的実体と常識に符合しない内容も多い。報告者はこうしたとんでもない証言に対して全く疑わず、そのまま受容した誤謬がある。

鄭玉順の例を見る。鄭玉順は食事を作るため井戸端に行ったところ、いきなり軍人たちによって拉致された後、警察署に連れて行かれ集団輪姦され、再度、軍部隊に移送され性暴行されたと証言している。だが、鄭玉順の証言は実体がなく創作した証言である。拉致された後連れて行かれたという警察署は豊山郡警察署を意味する。ところが、この警察署には朝鮮人出身警官が3:1程度で少し多い。そうしたところで集団輪姦が可能だったのだろうか。

時期も問題だ。拉致されたと主張する1933年は戦争前で朝鮮内に民間遊郭が多かったが軍慰安所は存在しなかった。彼女が恵山鎮守備隊に移送され慰安婦生活をしたと証言した内容には様々な点で矛盾がある。

まず規模の問題だ。400人の朝鮮人慰安婦が日本軍5,000人を相手にしたと陳述した内容は間違いだ。その当時、恵山鎮には日本19師団下の第74連隊所属第4守備隊から派遣された恵山鎮守備隊1中隊と2中隊があるだけだ。昭和10年4月30日に調査された第4守備隊編成装備一覧表によれば、恵山鎮守備隊は1中隊149名、2中隊121名合わせて270名であり、本部人員は6名で恵山鎮守備隊には276名が編成されていた。恵山鎮と少し離れた新乫坡鎭守備隊46名まで全て合わせても第4守備隊現員は329名に過ぎない。

次に、登場人物の加工だ。連れて来られた慰安婦のうち反抗する者がいると、日本人中隊長山本は首を叩けと命令したという陳述だ。だが、昭和7年に調査した恵山鎮守備隊の将校名簿をみると、山本という将校はいない。(第4守備隊長常磐井孝純中佐、恵山鎮第1守備隊長羽生善良大尉、第2守備隊長甲斐厚大尉)

昭和7年に調査した恵山鎮守備隊の将校名簿
恵山鎮守備隊数字1
恵山鎮守備隊数字2

6)報告書55番パラグラフ「ファン・ソギュンの証言」

ファン・ソギュンは1936年、村の里長の言葉に騙され牡丹江付近の日本軍部隊で慰安婦生活をしたと証言した。だが、この地域に軍慰安施設が入ってきたのは1937年、中日戦争以後のことだ。ファン・ソギュンの証言は他の証言とは異なり慰安所生活の具体的な内容が無く、抵抗する者に対する酷い殺戮が主となっている。

健康検診後、疾病に罹った女性は殺して遺棄する等の信じられない話であふれている。韓国内の慰安婦被害者とは異なり北朝鮮出身の慰安婦の証言は慰安婦を残忍に虐殺する内容が多い。妊娠した慰安婦の腹の中から胎児を取り出し床に投げて殺したとか、人肉スープを食べさせた等のハードコアな証言で満ちているが、これを無批判に受容する研究者たちがいる。

(7) 報告書56番パラグラフ「黄錦周の証言」

報告書によれば、黄錦周は17歳で勤労動員に選出されたが、幕舍に連れて行かれ慰安婦になったと証言する。黄錦周は数年の間証言活動をし、慰安婦になった時期について17歳、21歳、17歳、19歳、14歳と変わっている。また慰安婦になった経緯についても、挺身隊に動員されたが慰安婦に連れて行かれた、日本軍に連れて行かれた、処女供出で満州に連行されたと言い、次々に事情が変わる。

黄錦周の証言には歴史的事実と一致しない矛盾が多い。まず、1942年に挺身隊に連れて行かれたという主張はあり得ない。女子挺身勤労令公布は1944年8月23日なので1942年に天皇の挺身隊動員命令説は事実ではない。

次に、報告書には日本人指導者夫人が(他の証言では朝鮮人村班長夫人)、日本軍工場に行って3年間勤務することを命令したと陳述しているが、歴史的事実と合わない。挺身隊は徴用を命じる国家の令書によってのみ可能であり、村の班長夫人が命令を下す権威や地位にはない。

また、女子挺勤労令公布以前の官斡旋による募集は契約期間が2年であり、法令公布以後には1年になった。したがって最初の契約が3年間というのはあり得ない。そして、動員対象が15歳以上の未婚女性という規定はなかった。

満12歳以上40歳未満の国民登録可能者として中等学校以上卒業者の学力か技術を要求している点、令書を貰わなくてはならない点等で推測すれば証人のように無学ないしは不認可夜学出身である場合、資格に該当しない。

黄錦周は亡くなる直前まで「イラク派兵反対運動」をする等、従北左派団体である挺対協の主張に沿う活動をしてきた。挺対協が主導する政治運動に埋没した黄の「慰安婦証言」には政治的歪曲がないか甚だ疑問である。(韓国女性団体連合の資料写真)

4.クマラスワミ報告書のファクト誤謬

クマラスワミ報告書は歴史的事実と論理的因果関係、常識に符合しない記述が見られる。その事例は次の通りである。

(1)報告書11番項目「日本軍慰安所起源の誤謬」

近代東アジアでの軍慰安所は「義和団の乱」鎮圧戦争(1900~01年)で8ヶ国連合軍によって始まったもので、日本、米国、英国軍隊のためにそれぞれ1ヶ所、ロシア軍隊に3ヶ所を設置した。(車瓊愛,『1900年前後 東北アジア 3大戦争と軍慰安所』, 2009, 12p~13p)。

この時期に設置された軍慰安所は設立背景、管理地域、業所の監督、定期的衛生検査、利用時間、軍票の配布、女性の年齢制限等、太平洋戦争時期に日本軍軍慰安所と大して違わない。ただ、慰安所や慰安婦という用語が使用されないだけであり、性病を予防するための目的で設立された軍専用売春施設という点では同一だ。

これを朝鮮と日本の問題だけに限定させ、狭隘なアプローチをすること自体が慰安婦問題をジェンダー的な人権問題と見ず、民族主義的葛藤と偏向性を示している。

報告書には不正確で根拠の不十分な記述が見られる。最初の軍慰安婦は北九州に渡って来た朝鮮人となっているが、日本人「醜業婦」で構成された娘子軍が1870年代から南方、中国等に遊郭として進出した状態だった。

上海慰安所も大一サロン、小松亭、永楽館、三好館等、4ヶ所の遊郭業所が軍慰安所に転換したのである。朝鮮人慰安所はこれらの繁盛以後に進出した。

1930年『在上海朝鮮人状況』によれば、朝鮮人ダンサーとウェイトレスは21名に過ぎなかった。それが1936年以後に大きく増加し、酌婦が29名、ダンサーが37名、接待婦が48名であり、それ以外に私娼をする朝鮮人女性も290名にもなった。(参照:『昭和十一年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締』)

(2)報告書14番パラグラフ「慰安婦徴集という用語の不適切な使用」

報告書では慰安婦需要が増加すると、徴集という方法を通じて強制と詐欺が動員されたと記述されている。非常に不正確な記述である。徴集というものは基本的に徴用令という法律の下で、国家機関が徴用状に依拠して選び出す方式をいうが、日本は一度も慰安婦をこうした方式で徴集したことがない。

(3)報告書15番パラグラフ「朝鮮での国家総動員法施行誤謬記述」

総論15項には国家総動員令制定時期が1932年と記述されているが、1938年であり明白な誤謬である。基本的な事実関係すら十分に調査されない不誠実な報告書である。女子挺身隊は朝鮮の場合1944年末に動員されたが、被害女性の大部分は1939年から1942年の時期に慰安婦になったので、挺身隊実施とは何の関係もない。

(4)報告書16番パラグラフ「挺身隊と慰安婦の混同」

女子挺身隊と慰安婦を無理に関連させる誤謬を犯している。挺身隊は一定の年齢と学力を持つ女性で、短期間勤労に動員されたが、慰安婦被害者は大部分、無学、妓生、家政婦、料理屋で生計を維持した女性たちで、挺身隊に応じる資格に該当しない。

(5)報告書17番パラグラフ「日本国内慰安所に対する調査の不誠実または意図的排除」

この項目で報告書は日本軍が駐屯する場所であれば慰安所がどこであれ存在し、慰安婦搾取があたかもすぐに軍隊にだけ横行したように記述しているが、これは一般化の誤謬である。日本国内に存在する慰安所の大部分は炭鉱やダム建設工事現場の労務者のための慰安所だ。朝鮮人労務者もこの慰安所を利用した。慰安所は売春施設であるだけで、慰安所に従事する女性たちが、人権問題や人身売買については慰安所だけでなく、私娼や料理屋等、遊興施設に売られていった全ての女性を対象にしてこそ道理に合う。前貸金を返済する時まで個人の自由が剥奪され、監禁状態で性的サービスが遂行されることは差異が無い。

(6)報告書20番パラグラフ「慰安婦虐待に対する先入観と断定」

この項目で事例に提示した慰安婦の非人間的で残酷な実状は戦地の状況によって異ならざるを得ないことを意図的に無視した。慰安婦関係の当時の米軍報告書である『Japanese Prisoner of War Interrogation Report 49』(英文本)によれば、ビルマのミトキナ地域の慰安婦女性は豪奢な生活をして、十分な金で服、靴、タバコ、化粧品を買い、将校たちと一緒にピクニックと各種のレクレーション、社交的な夕食等に参加し、楽しく暮らした。彼女たちは蓄音機を持っていて、市内でショッピングをしたと調査された。([専門翻訳]日本軍戦争捕虜尋問報告書第49号:韓国人慰安婦たち)

日本軍戦争捕虜尋問報告書第49号(Japanese Prisoner of War Interrogation Report 49)

戦場で、特に激戦地であるほど状況によって補給が中断され、状況が劣悪になれば、慰安婦だけでなく、軍人と軍属等、全ての人々が困難になる。また慰安婦たちが困難だった状況を回顧しながら、証言上の誇張や隠蔽、歪曲が有り得ることは全く勘案されず、無批判的な受容態度を見せている。

(7)報告書22番パラグラフ「慰安婦戦時動員と自殺強要等に対する一般化の誤謬」

報告書では多くの慰安婦が軍人たちと共に自決、または軍事作戦に動員を強要されたと記述しているが、軍作戦地から孤立した状態で脱出することがより危険な場合、慰安婦たちはやむを得ず軍人たちの保護を得るためにも軍と共に行動せざるを得ず、報告書の主張とは異なり、戦闘が激烈でなかった地域の慰安婦は軍属として編入され、軍病院や食堂に配置されて勤務し、解放を迎えた。そうした多数の事例を見ると、敗戦が差し迫った南方地域で、日本軍が玉砕した地域で慰安婦たちが犠牲になった一部の極端な事例を全体の問題として拡張させる、一般化の誤謬を犯している。

(8)報告書24番パラグラフ「引用資料の無断変造、添加、創作、推測による断定」

報告書は岡村寧次(おかむらやすじ)中将の回顧録を根拠に、「日本国内の朝鮮人社会から多くの女性を上海に送るよう要請した」と書くが、これは原本に無い創作されたものだ。国連報告書にこのような根拠不明確な表現や創作が記されていいのか。 また、岡村寧次は日本軍内の強姦事件の防止対策として長崎県知事に慰安婦を要請したと書いているが、陸軍慰安所の設置される前、上海では既に海軍慰安所が存在した。岡村の回顧のままに長崎県知事が応じたのか確認できる資料はない。にもかかわらず、この報告書は岡村の要請が実現されたものだという前提のもとに内務省まで介入したかのように記述されている。全く根拠のない主張であり、むしろ内務省は軍の名分や要請を口実に募集業者が婦女を誘拐したり、募集することを禁止したという公文が存在する。クマラスワミはこの公文を確認したのか。

(9)報告書28番パラグラフ「慰安婦動員における巡査と警察の介入推断誤謬」

報告書は国家による挺身隊動員と民間業者による慰安婦募集を錯覚した結果、慰安婦募集にも巡査が動員され、憲兵隊が動員されたという主張を繰り返している。これは全く根拠のない酷くいい加減な主張だ。朝鮮で女子挺身隊が1942年に募集されたことはない。日本内地でさえ、女子挺身隊という用語が公式的に閣議で議論されたのは1944年2月からだ。朝鮮では女子挺身勤労令が1944年8月23日に発動された。

(10)報告書29番パラグラフ「国家総動員法施行対象、時期に対する事実関係誤謬」

この項目は創作に近い。基礎的な事実関係ともかけ離れた記述だ。国家総動員法は1938年に通過したが、台湾と朝鮮ではその施行は保留され、1944年9月以後になされた。日本内地とは事情が随分異なる。国家総動員法は慰安婦募集の根拠法にならず、戦時物資と勤労人力を動員するための法であり、軍慰安婦を強制するための法ではない。その上、朝鮮での施行は戦争末期であり、大部分の慰安婦被害者が1938年~1942年の間に発生したので関係もない。さらにこの項目が主張する根拠は、虚構と判明した吉田清治の回顧なのだ。

(11)報告書34番パラグラフ「証言に対する交差検証努力の不足」

この項目で毎日60~70人の男性の相手をしなくてはならなかったという内容は、一部慰安婦の荒唐無稽な証言に基づく不正確な記述だ。日本軍の慰安所管理規定は大同小異だが、兵士と下士官は30分、将校は1時間を許容されていたので、これをもとに推算すれば、将校を除いた兵卒だけを計算したといっても1人あたり30分づつ許容されると、全30時間が必要である。食事と休息、睡眠を除いたとしても不可能だ。常識と基本すら無視したこの調査報告書は国連が採択した公式報告書だとは信じられないほどに深刻なレベルである。

(12)報告書35番パラグラフ「慰安婦の健康と人権侵害に対する便宜的断定」

この項目を見ると日本軍は慰安婦の健康状態を顧みず、甚だしきは刺し傷や骨折があっても放棄し、休息時間も与えなかったと記述されている。これも慰安婦被害者の証言を一方的に受容した結果によるものだ。

1940年南支那軍の慰安所管理規定を見ると、毎週性病検査の他に月1回健康検診を受けるようになっていた。これは慰安婦の伝染病以外の疾病有無を確認して営業中断措置を取るためであり、実際、軍の大佐である松見茂雄が1940年12月10日作成報告した『功積概見表』によれば、慰安婦の健康検診が毎月2~300人以上実施され、その中の一部は入院治療を受けていることが分かる。

慰安婦は特に生理期間中に接客をしないようにしており、違反時には事業主を処罰出来る程に規定が厳格だった。したがって一部の証言で生理中にも性関係を持続したという主張はそのまま盲信するには難しい点がある。

(13)報告書36番パラグラフ「慰安婦搾取に対する先入観、糊塗」

この項目で記述した物資支給のおざなり、経済的搾取等は戦争という特殊な状況と補給状態に対する考察がなく、慰安婦だけに対する差別があったように結論を糊塗出来る。慰安婦の食事、衣服提供は戦地によって異なるために、どの場合が一般的なのか特定出来ない。供給が円滑な地域では充分で、南方地域のような戦時期に孤立した地域では餓死レベルまで到達した。これは慰安婦に限ったことではなく、所属軍人と軍属の全てに該当する。慰安婦たちが金を稼げない理由は、基本的に慰安婦は前渡金形式で借金を負って出発したために、多くは収入の5~60%を控除され、化粧品や個人の消費物品の購入を私費で充当したためだ。(邦訳:黄哲秀)

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