“悪夢”が繰り返される可能性は? 1994年 「佐世保大渇水」 石木ダム建設事業と水不足

少雨が続いた佐世保市では1994年8月1日に南部地区から給水制限が始まった。住民はバケツに水をため、節水を強いられた=同市大塔町

 長崎県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業。市は慢性的な水不足を理由にダムの必要性を訴える。引き合いに出されるのが1994年の「佐世保大渇水」。給水制限が264日間に及び、「佐世保砂漠」と呼ばれる事態に陥った。当時を振り返り、“悪夢”が繰り返される可能性はあるのか探った。

 1994年8月1日。佐世保市には、目に見えない南北の“境界線”が引かれた。
 空梅雨の影響で、水源に乏しい南部地区では貯水量が見る見る減った。市は水の供給を一定時間に制限する対策を決行。市職員ら約160人が、約8万1100人が暮らす南部地区へ向かい、各家庭や商店の止水栓を閉めて回った。
 給水時間は1日10時間に設定。8月7日以降は5~6時間に短縮した。住民はこぞってポリタンクを購入。水が出る時間帯には職場を離れ、自宅の浴槽やバケツなどに水をためる姿もあった。シャワーや洗濯の残り水はトイレにも使い回し、節水を強いられた。
 飲食店やホテルは大型タンクを設置するなどして営業を継続。学校や福祉施設、観光地…。あらゆる場所に影響は広がった。
 住民の苦労や不安をよそに、太陽は容赦なく照り続けた。南部地区唯一の水がめ、下の原ダムの貯水率は20%を割り、さらに危険な水域へと入っていった。

■給水 1日わずか3時間 直近26年間は制限なし
 
 佐世保の水不足は、急激に深刻さの度合いを増していった。
 1994年8月24、25両日の計48時間、佐世保市は給水をわずか5時間に絞る措置を断行。さらに、26日以降は1日3~4時間に減らした。各地で渇水が問題化していたが、市の対策は「全国一厳しい」と言われた。水が出る時間帯は猫の目のように変わり、住民は困惑した。

給水時間に合わせた止水栓開閉作業の様子=1994年10月、佐世保市京坪町

 市内の水道網は南部と北部で別々に敷設され、双方で融通ができなかった。
 その境界にある稲荷町の理髪店は、わずか数百メートルの距離で南部に区分けされた。店長の瀬脇勝一さん(87)は「バケツのお湯を電動ポンプでくみ上げて洗髪していた。同じ市民なのに南北で生活環境がまるで違った」。店先から見える北部の町並みをうらやみながら眺めていた。
 9月6日。給水制限はいよいよ15万1300人が住む北部地区に広がり、市内全域が対象に。市職員だけでは止水栓の開閉作業が間に合わず、10月25日からは各町内会に作業を委託した。祇園町一組の町内会長だった林俊孝さん(75)は「開栓が遅れると地域住民の関係が悪化しかねない。いやな仕事だった」。苦々しい表情を浮かべた。
 水不足は消防活動にも影を落とした。各地の貯水池が干上がる可能性があり、消防隊員は担当区域を回り、消火に使えそうな水源を各自のノートにまとめ、警戒感を強めた。
 給水制限下で惨事は起きた。12月4日早朝、市中心部の住宅地で火災が発生。いち早く駆け付けた60代男性は、ためていた水を掛けたが、「どうにもならなかった」。消防隊によって鎮火されたが、計4棟が全焼し、焼け跡から家族4人の遺体が見つかった。
 当時消火栓は使用できる状態だったため、市消防局は「給水制限の影響はない」との認識を示した。ただ火災記録には初期消火は「なし」と記載された。現場にいた職員は言う。「放水は初期消火の基本。水道が使えない状況はリスクになる」
 給水制限は翌年4月26日に解除され、市民はようやく渇水の長いトンネルを抜けた。市が投じた緊急対策費は約50億円に上った。その後も水不足の恐れは度々あったが、この26年間で、止水栓を閉める事態には至っていない。大渇水を教訓に南部と北部の水道管は一部連結され、一定量の融通が可能になった。
 それでも、石木ダムの建設を推進する市民団体の寺山燎二会長(82)は「水源が乏しいことに変わりはない。ダムは暮らしの安心感になる」と訴える。
 美容室を営み、当時、子育て中だった50代女性は「水がないと衛生環境を守れない。もし今渇水が起きたら、新型コロナウイルス対策との二重苦になる」と心配する。
 石木ダムの建設で問題は解決するのか-。そう問い掛けると、女性は首をかしげて言った。
 「それは分からない」


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