南海買収で幻に終わった神戸移転とは… 常勝ホークスの礎を築いた男が語る真相

ダイエーの球団本部長、球団代表を務めた瀬戸山隆三氏【写真:編集部】

ダイエーの中内功社長は南海買収後の新球団は神戸を熱望

2020年のプロ野球はソフトバンクが圧倒的な強さを見せつけ日本シリーズ4連覇を飾った。V9の巨人以来、2チーム目の4連覇となり、日本シリーズの連勝記録を12に伸ばしポストシーズンの連勝も16。投打でスター選手を揃え12球団随一の育成力で“常勝軍団”を作り上げたが、ホークスの福岡移転となった1988年は苦しいスタートだった。当時、ダイエーの球団経営に携わり球団本部長、球団代表を務めた瀬戸山隆三氏が福岡移転の真相、王貞治監督誕生など当時を振り返る。第1回は福岡移転。

ダイエーホークスが誕生したのは1988年オフ。南海を買収し翌年から新天地・福岡でスタートを切ることになるが、その役割を全うしたのが瀬戸山氏だった。中内功社長に呼ばれ鈴木達郎専務と共に買収調査を命じられた。中内社長はダイエーのお膝元・神戸に本拠地を置くことを熱望していたが厳しい現状が待っていた。

南海から伝えられていた前年のシーズン観客動員数は88万人だったが実際には30万人だったことが判明。赤字も30億円ほどあり神戸を本拠地とした球団経営が成り立つのかは未知数だった。

「当時、関西ではパ・リーグは阪急、近鉄と閑古鳥が鳴く状況。セ・リーグは圧倒的人気を誇る阪神がいましたから果たして神戸で成功することができるのか、と。そんな状況の中、福岡の青年会議所が熱心に誘致を行っていると聞き何度も足を運んだ。プロ野球誘致に向けた100万人の署名もあり、ビジネスの観点からいっても福岡だった」

「やるからには日本一のチーム、経営を目指す」

かつて南海と激しい戦いを繰り広げた西鉄ライオンズ(その後、太平洋クラブ、クラウンライター)が福岡の地を去り10年が経ち、地元民はプロ野球を求めていた。さらにダイエーが福岡で球団を持てば九州全体の下地を引き、アジア進出に向けても格好の宣伝となる。

さらに、当時のパ・リーグ会長だった堀新助氏が口にしていた「これからの野球は地方の時代になっていく」という言葉も“武器”にしてデータを交え中内社長を説得すると、思いのほかすんなりと福岡移転の話は進んでいった。

南海から買収に向けた条件は3つ。(1)ホークスの名を残すこと(2)杉浦忠監督をそのまま起用すること(3)選手、首脳陣、球団社員は希望するものを全員連れていくこと。これら、すべての条件を飲み、さらに社員にはモチベーションを上げるため給料は現状維持ではなく1.2~1.5倍を提示するなど中内社長も全面的にバックアップしたのだ。

「ああ見えて中内さんは柔軟性があった。2か月はかかりましたが何とか説得することができた。やるからには日本一のチーム、経営を目指すと大きな目標を立てていた」

本拠地は平和台球場に決まり、いよいよ福岡ダイエーホークスがスタートを切ったが、中内社長はより壮大な計画を実現させるため動いていた。巨人の本拠地・東京ドームを超える、日本初の開閉式屋根を持つ福岡ドームの誕生だった。(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)

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