アジア系コミュニティの今(3)=サンパウロ市で奮闘する新来移民=大浦智子=バングラデシュ編<1>

ヌル・アミンさん

ヌル・アミンさん

ポ語より日本語の方が得意!

 ネパール編、フィリピン編に続いて、今回はバングラデシュ編。 「こんにちは。日本人ですか? 私は日本が大好きです!」――。 ヌル・アミンさん(47歳、ダッカ生まれ)はブラジルに暮らして10年になるが、ポルトガル語よりも日本語が得意なバングラディッシュ人だ。
 日本に行ったことはないが、ダッカで生活していた時に日本へ行きたい一心で日本語を勉強し、その会話力は日常のコミュニケーションに全く問題がない。なぜか東方の日本ではなく、西方の彼方、南米大陸に足を踏み入れた。
 2000年代のバングラディッシュの政治への不満や家庭内の様々な問題を解消するため、2010年にアミンさんは国外渡航を決意した。それまでも隣国インドをはじめ、タイやマレーシア、アラブ首長国連邦を旅行したことがあったが、毎月1千ドルを稼ぐことができると聞き、2人の友人と一緒にエクアドルに渡航した。
 グアヤキルで約4カ月の滞在中、実際には月250ドルしか収入を得られないことが分かり、現地での生活も維持できなかったため、友人たちはそのまま米国に渡った。アミンさんは一旦バスでペルーに移動し、到着した町で右も左も分からないでいたところ、一人のパキスタン人と出会い、事情を話すと一緒にブラジルに行くという話が決まった。

ニッケイ新聞を読むアミンさん

ニッケイ新聞を読むアミンさん

 アミンさんたちはタクシーでボリビアを経由してブラジルに入国。まずはブラジリアに到着した。2日間食べることもできず、寝床もないままさまよい、ようやくブラジリアのバングラディッシュ人の家で約2カ月滞在させてもらうことになった。
 その間、難民申請をしてプロトコールを受け取り、労働手帳と納税者番号を取得。ブラジルでの就労が可能になった。職探しをする中で、パラナ州マレシャル・カンジド・ロンドンの食肉工場で、アラブ諸国に輸出する鶏肉加工のために5人のムスリムを募集している情報を得た。
 問い合わせるとアミンさんは採用され、5年間その工場で働くことになった。2012年には2年後にブラジルでサッカーワールドカップが開催されることに乗じて、ブラジル政府が在伯外国人に永住ビザを出し、アミンさんも同年にRNE(外国人登録証)を取得することができたという。

救世主は日系人!

 バングラディッシュを出てから半年後、ブラジル国内で一旦落ち着ける場所を見つけたアミンさん。しかし、当初は日常生活のポルトガル語も分からず、土地勘もなく、困ることが少なくなかった。
 「一番助けてくれたのは、現地の日系人家族でした」と振り返るアミンさん。日本語でコミュニケーションができた事から食肉工場の仕事以外に日系人が経営するサイバーカフェでも働き、ブラジル人よりも日系人たちと打ち解けることができた。
 「住居から食事の世話まで、生活面で多くの面倒を見てくれとても感謝しています」
と振り返る。

常に巻き尺を持ち歩き仕立てる服のサイズを測るアミンさん

常に巻き尺を持ち歩き仕立てる服のサイズを測るアミンさん

 就職してから無欠勤という真面目な働きぶりで、工場の責任者からも重宝されていたアミンさんだが、2015年から1年半、バングラディッシュに帰国することになった。
 アミンさんはバングラディッシュではテーラーの仕事が本職で、2016年にブラジルに再渡航してからはサンパウロ市のブラス地区に滞在し、衣料品の販売を始めた。
 2年前からはカンピーナス市内のギャラリーのボックスで子どもの衣服や靴、おもちゃ、婦人服などを販売し、サンパウロ市とカンピーナスを往復するようになった。
 「ボウソナロ大統領になってからは目に見えて売り上げが落ち、パンデミックが追い打ちをかけました」と肩を落とすアミンさん。
 労働党政権(PT)の間は景気の良かった客層が徐々に引いていき、パンデミックとなってカンピーナスの店も閉店を余儀なくされたという。(つづく)

 

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