【福井】500年前から雪が積もらない⁉ 信仰の対象にもなるミステリアスな「お腰掛けの石」

福井、石川、富山などの北陸は、浄土真宗(仏教の一派)が盛んな土地です。中でも福井と石川の県境にある吉崎という場所には、かつて浄土真宗の「宗教都市」が存在しただけあって、不思議な言い伝えが残っています。そこで今回は吉崎に伝わるミステリーを紹介します。

北潟湖越しに眺める吉崎御坊の遠景

いくつもの伝説を残した蓮如って誰だ?

吉崎御坊にある蓮如の銅像

日本における仏教の歴史を、大まかにでもご存じでしょうか?ものすごく大ざっぱにまとめると、もともと外国の宗教だった仏教が日本に入ってくると、受け入れようとする進歩的な人たちと、受け入れられない保守的な人たちが対立を始めます。争った蘇我氏と物部氏の名前は、遠い昔に日本史の授業で習った記憶があるかもしれません。

結果として仏教は受け入れられ、奈良時代に国の宗教にもなります。しかし、何の世界でも同じですが、年月が経つにつれて、仏教の世界も少しずつ変わっていきます。いい方向に変わっていく面もあれば、悪い方向に変わっていく面もあって、その仏教を原点回帰させようとする勢力や、新しい方向に変えようとする勢力が、時代とともに次々と現れます。

平安時代で言えば最澄と空海で、鎌倉時代には法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などが、仏教の世界に新しい風を吹かせてきました。

吉崎御坊の入り口

冒頭の吉崎とは、この中の親鸞が始めた浄土真宗の拠点になります。親鸞自身ではなく、親鸞が亡くなった後に、吉崎を拠点に北陸で布教をした蓮如(れんにょ)という人が、今回の主人公。

辞書によれば、

<比叡山宗徒の襲撃に遭い、京都東山大谷を出て1471年(文明3)越前吉崎に赴き、北陸地方を教化>(岩波書店『広辞苑』より引用)

と書かれています。吉崎の地形を好み、原始林を切り開いて、門徒(信者)と一緒に吉崎の山の上(通称でお山)に坊舎を中心とした宗教都市をつくりました。

結局、火災や戦国の動乱に巻き込まれて、蓮如のつくった宗教施設群は焼失し、現在はいくつかの遺跡が見られるだけです。当の蓮如も吉崎を去る結果になりましたが、その在住した間に不思議なエピソードをいくつも残しました。

お腰掛けの石は雪が降っても溶けて積もらない

吉崎御坊の山上にあるお腰掛けの石

例えば最もユニークな不思議話の1つは、吉崎の山の上にあるお腰掛けの石です。かつて蓮如が吉崎の山の上に宗教施設をつくったとき、敷地内にある石に2人の弟子とともに腰掛けて、蓮如は北潟湖越しの鹿島などを眺めていたといいます。

時代で言えば今から500年ほど前。普通に考えればあり得ない話ですが、その石には不思議な伝説が残っていて、蓮如が座っていたころから500年以上が経過した今でも、蓮如の温もりが残っているといわれています。

現場は信者にとって神聖な場所なので、石に触れる行為は自粛しましたが、その温もりのせいで冬に北陸らしい深い雪が降っても、路上のマンホールみたいに、石の上だけ積もらないという伝説があります。仮に積もっても、その石の上だけすぐに消えてしまうのだとか。

お腰掛けの石

同様の話は、岩手県にある丹内山神社などでも伝わっています。真冬に雪がどのように積もるのか確認していませんが、現在も熱心な信者から慕われる神聖な石です。雪が積もりにくい何らかのメカニズムが存在していて、蓮如に対する御徳が結び付き、このミステリーを生んだのかもしれませんね。

現在は吉崎御坊跡の一角に、石柱の囲いで大事に保護されています。筆者は偶然にも蓮如に関する予備知識があったので、想像をたくましくすると、500年の時を飛び越えて、目の前の石に蓮如が座っているような気配を感じられました。

蓮如の名前を初めて聞いたという人は、少しでも予習をしてから現地を訪れると、寡黙な石にみなぎる独特な迫力を感じられるかもしれませんよ。

蓮如も眺めた、吉崎御坊から見える鹿島の森。現代はこのベンチがお腰掛けの石か

ちなみに、原典を確認していない孫引きの情報ですが、この石は1474年(文明6年)の『吉崎山絵図』の中にも描かれているといいます。蓮如が生きていた時代に、かなりの確率で本当に存在した石なのですね。

これから福井は冬に入り、雪深い時期が始まります。新型コロナウイルス感染症の影響に気を配りつつ、機会があればこの冬に訪れてみてもいいかもしれませんね。

[参考]

※ 吉崎御坊跡 - ふくいドットコム

※ 吉崎御坊跡(国の指定史跡)周辺の観光情報 - あわら市

※ 第17回 日本仏教史―仏教伝来から鎌倉仏教まで― - 東京大学仏教青年会

[All photos by Masayoshi Sakamoto]

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