​​“学び”は“遊び” 子どもは楽しいことからしか学ばない

幼児から大人まで論理国語を教えている出口先生は、子どもが新しい学びをやっているときに一番大切なのは「楽しいこと」だと言います。いったいどういうことなのでしょうか。過去の“学び”からもひもといていきます。

一番の壁は古い価値観をもった先生と親

私たち大人には、「国語はこうあるべき」「算数はこうあるべき」という固定観念ができあがっています。それは、自分がこれまでに受けてきた教育を反芻しているにすぎません。それが正しいのかどうか、何の検証もなく古い教育を子どもたちに押しつけるのは罪でしかありません。

新しい学びを子どもがやっているときに一番壁になるのが、古い価値観をもった先生と親です。私は、開発した教材で幼児期の子どもたちを学ばせる際には、必ず親に同伴してもらいます。これは単なる付添いではありません。一緒に授業を受けてもらい、カリキュラムに取り組んでもらいます。いったん凝り固まった頭を真っさらにするためにも、一緒に授業を受ける必要があると考えるからです。

せっかく教室で自らの頭で考える訓練をしても、家に帰ったら、「なんでこんなことができないの」などと親が台なしにしてしまう可能性があります。親にも子どもへの接し方を学んでもらうために、親子同伴にしているのです。

また、教室を離れた家庭での生活も学びの延長になります。親が新しい教育を体感して、家庭でも生かしてほしいと願っているのです。

親も、子どもの成長を目の当たりにして、新鮮な学びに刺激を受け、改めて学ぶことの「楽しさ」や「必要性」を実感することがなによりも大切なのです。

「出口式みらい学習教室」で指導するのは、実は子どもよりも親に対してなのです。なぜなら、幼児童の教育は結局のところ家庭での教育が基本になります。週に一時間ほど教室に通ったところで、それで子どもの能力が飛躍的に高まるわけではありません。あくまでそれは新しい教育の仕方を指導するためであり、それを受けて保護者が自分の子どもに向き合ってほしいのです。

自分の子どもの教育を他人任せにする限り、子どもの反抗期を乗りこえることはできません。親が子どもを教えることにより、子どもを通して親も学ぶのであり、そのことで良好な親子関係を構築していくことが大切なのです。

また子どもが何かを考えたなら、たとえそれが間違っていても、「よく考えたね」と褒めてあげることが大切です。子どもは自己承認欲求が強いですから、親が褒めてあげることで自信がつき、ますます学ぶことが好きになります。

間違っても怒らないで、なぜ間違ったのかを考えさせることです。人から認められていると感じることで自己肯定感も育っていきます。自分を愛するような子どもになり、自分を愛することができれば他人を尊重することもできます。コミュニケーション能力もつくので、リーダーとしての資質が身につきます。

学ぶことは遊び

私は「勉強」という言葉が嫌いです。

「勉強」は「勉める」「強いる」と書きますよね。これって所詮は押しつけなのです。子どもの自由を奪って、頑張れ、努力しろというから、子どもは勉強が嫌いになるのです。その結果、試験の成績が悪かったなら、努力不足と子どものせいにしてしまいます。

子どもは幼ければ幼いほど単純であって、楽しいか楽しくないか、判断基準はこれしかありません。勉強が大切だとか、将来役に立つとかは、大人の価値観でしかないのです。子どもは楽しければ、ほっといても学び始めるものです。

もともと、学ぶことは遊びでした。

たとえばギリシャ時代、貴族は働きませんでした。働くのは奴隷の仕事だったのです。ということは貴族は一生遊べばよかった。一生遊ぶといっても、すぐに退屈するから大変なのです。本当に深く遊ばないと飽きます。それが哲学であったり文学であったり、演劇として発展していったのです。

あるいは、平安時代は後宮文化が生まれます。お姫さまも女房も炊事洗濯はやらない。一生遊べばいい。だから、物語やエッセーや和歌や、あるいは管弦などの音楽が発達しました。一生遊ぼうと思ったら、ものすごく深いところまでいかなければなりません。

これが学ぶということです。まさに学びは遊びの中から生まれてくるのです。子どもたちがおもしろがって、自らもっとやりたくなる環境づくりが大事なのです。学ぶことが楽しいと感じるならば、その子は一生学んでいきます。子どもにとって学びは「遊び」であるという認識を是非もってください。楽しいから学ぶのです。

頭を使って世界を捉え、いろいろな発見をするならば、こんな楽しいことはないのです。生き生きとして学ぶはずなのです。それは遊びだからです。

これまでの【出口式「論理エンジン」の考え方】は

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