消えない記憶、「赤紙」を配達した過去 103歳の証言「思い出すのはこれで最後に」

戦争中に撮影された、役場職員だったころの吉田寿太郎さん

 「話すにはあまりにつらくて、子や孫には言えなかった」。千葉県鴨川市の高齢者施設で暮らす吉田寿太郎さん(103)は太平洋戦争当時、村役場の職員として、召集令状「赤紙」を配達していた過去について証言した。太平洋戦争開始から79年たつ。悲しみの記憶は今も残り続けている。(共同通信=永井なずな)

 ▽両目を閉じて

 今年8月、家族や施設の協力の下、新型コロナウイルスの感染対策としてオンラインで取材に応じた吉田さんはパソコンのカメラを見つめ、ゆっくりと言葉をつないだ。耳が遠くなっており、同席した施設職員が記者とのやりとりをサポートし、約50分間のインタビューが実現した。

 「本当にもう思い出したくないんだよ」。赤紙を配る仕事に関して質問が及ぶと、それまで笑顔で会話していた吉田さんが、額にしわを寄せて両目をぐっと閉じ、苦しそうな表情になった。質問を続けるのが心底申し訳なくなるほど、記者の心をひりひりさせる顔だった。

オンラインで取材に応じる吉田寿太郎さん=8月

 吉田さんは1917年(大正6年)、千葉県の吉尾村(現鴨川市)の農家に生まれた。中学を卒業後、陸軍に入隊し、騎兵隊に所属。満州の孫呉に出征した。「馬とは親子みたいな関係で、自分の馬を毎日大事に世話していた。『クークー』と鳴いて懐いてくれるのがかわいかった」。

 ▽村長から「やれ」

 除隊後、20代半ばで役場に就職した。徴兵検査の結果や召集令状を取り扱う兵事係は住民に疎ましがられていた。吉田さんは、数人しかいない役場職員の中で最も若かったため、「村長から『やれ』と言われた。いや応なしだった」。

 召集令状は旧日本陸軍が発行する命令書で、徴兵検査で現役兵とならなかった人や除隊後に予備役になった人など、平時は民間で生活する「在郷軍人」を、戦局に応じて呼び出す際に使われた。淡い赤色の紙に印字されていたことから「赤紙」と呼ばれていた。集合する日時や場所、部隊名などが記されており、郵送ではなく役場の兵事係が各家庭に直接届ける決まりだった。

 「上から役場に赤紙が着くと、兵事係の私は、徒歩や自転車で住民に届けて回った。私が来ると、近所中で『やってきた』とうわさになった。私の行動を皆が気にしていて、嫌がっていた。配りたくなかったけど、しょうがなかったな」。出征者の戦死を遺族に知らせる戦死公報も配達した。

役場職員だったころの吉田寿太郎さん

 「小さい村だったから、配る相手は知っている人ばかり。それでも、国家の仕事だったからやるしかなかった。(受け取る)本人や親兄弟は私個人のことを好きとか嫌いとかは関係なく、私を見るのがつらかったと思う」。手渡す時、泣いたこともあった。

 ▽刑の執行人

 28歳で終戦。「日本の勝ち負けは国家にとっては重要だったが、自分にとっては戦争がやっと終わったことが一番だった」。ただ、無事の帰還をいくら祈っても戻ってこなかった兵隊もおり、戦死公報の配達はしばらく続いた。

 戦後は役場を早期退職し、地元で剣道の指導者や農家として暮らした。吉田さんの息子は「役場を離れたのは家業を継ぐためだったが、赤紙を配った過去を背負わされ、逃れたいという気持ちもあったようだ」と語る。戦争のことを父から聞いたことはほとんどなかったという。「テレビドラマを見ると感情移入して泣いてしまうような優しい性格だったから、話しがたい経験だったに違いない」

市民団体「戦争を語り、伝える会in鴨川」が刊行した証言集

 剣道6段の腕前で99歳まで腕立て伏せを欠かさなかった吉田さん。2018年、100歳を超え、地元団体による聞き取り調査で、初めて自らの戦争体験を振り返った。「刑の執行人みたいだった」「高齢夫婦の一人息子のところへ赤紙を持って行くのがつらかった」といった言葉が、20年6月刊行の証言集に収録された。

 ▽「忘れたい」

 最近は記憶が少しずつ衰え、寝ている時間も多くなってきているが、自室から食堂まで自力で歩けるほど健康だ。9月には、敬老の日を祝う施設のイベントで、入所者最高齢として表彰された。

 「若い時に、戦争の始まりから終わりまでの全部を見て、いろんな思いをした。戦争の話を聴こうという気持ちはありがたいが、経験した者にとっては忘れたい記憶。当時のことを思い出すのはこれで最後にしたい」

千葉県鴨川市の高齢者施設で過ごす吉田寿太郎さん=8月

 吉田さんの体験が収録された証言集は、市民団体「戦争を語り、伝える会in鴨川」が刊行した「鴨川の戦争とくらし50人の証言」。1冊2500円で、鴨川市内の書店などから購入できる。問い合わせは、同会の篠田隆さん、電話04(7098)1004。

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