巨人二軍の流行語と豊田泰光青春の叫び

1956年日本シリーズでMVPに輝いた西鉄・豊田泰光

【越智正典 ネット裏】昔、巨人二軍では遠征に出ると「あれ、知ってるかい?」が流行った。北海道遠征で「長万部」に着くと、先輩が駅の表示を指差して「あれ、知ってるかい?」と、後輩に聞くのだ(おしゃまんべ)。一軍遠征の車中で4番川上さん(哲治、V9監督)が本を読んで勉強している。見習わなきぁーと、始まったのである。九州遠征で大分県竹田に着くと、駅の構内にターンテーブル。先輩が「あれ、知ってるかい?」。後輩が答えた。「ハイ。あれは機関車の目方を計るものです」

茨城県久慈郡大子町で生まれ育った水戸商業の豊田泰光が西鉄ライオンズに入団したのは昭和28年である。18歳。水戸商業は大子の学区外である。水戸商業の近くに寄宿した。というと聞こえがいいが、梨畑の見張り小屋の番人である。校長岡田潤一郎が折々に彼を呼び出し、夜眠っていないだろうと医務室に連れて行って「ここで休んでいなさい」。

契約金50万円、給料月3万円。母親に頼んで契約金の中からオカネを貰い、水戸商業の正門前のパン屋にたまっているツケを払った。焼き芋屋にも勘定がたまっていたがこれ以上は頼めない。彼が焼き芋屋に勘定を払ったのは1年後である。

「キッズ・イン・ヒム」

米国では名選手は少年のように純真で、茶目な心の持ち主だといわれているが、茶目などやっている暇はない。昭和28年1月18日、豊田は水戸を発った。すさまじい仕送りが始まろうとしていた。父親は不運にも病に倒れている。母、弟、妹3人。一家を支えなければならない。見るに忍びなかった担当スカウト宇高勲(国民リーグ創設)が、昭和29年3月まで月7万円を豊田に渡した。

キャンプは福岡・春日原。キャンプに卒業試験の通知が来た。旅費を考えると帰れない。豊田は校長岡田に手紙を書いた。「卒業試験には帰りません。卒業できなくてもいいと思っています。卒業式にも帰りません。西鉄でがんばります」

45失策だったが、監督三原脩は彼を外さなかった。27本塁打、打率2割8分1厘、新人王。昭和31年首位打者。昭和28年4月18日、彼はおかあさんと弟妹を後楽園球場に招いた。毎日オリオンズ対西鉄ライオンズ。彼は「火の玉投手」荒巻淳と山根俊英からホームランを打った。賞金と商品をおかあさんに差し出した。てるさんはしかし、それから一度も試合を見にくることはなかった。彼女は人生いいことばかりが決してないのをイヤというほど思い知らされてきたからである。

豊田泰光は後年、西鉄の後輩、投手三枝道夫・高崎商業、橋本政雄・水戸一高、捕手後藤順治郎・桐生高らが訪ねてくると歓迎し、銀座8丁目のピアノラウンジに案内した。勧められるといちばんあとに「白い花の咲く頃」を歌った。

「白い花が咲いていた。ふるさとの遠い夢の日」。初夏、水戸商業の生垣には、からたちの花が咲く。

話は昭和46年になる。三田学園から巨人に入団した淡口憲治が愛用のバットを下げて(高校野球はまだ木のバット)二軍キャンプの都城に着くとバットを支給された。「へー、プロ野球はバットまでくれるんですか」。商売道具を…と驚嘆した。正論である。立派な選手になった。 =敬称略=

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