長与千種の波乱万丈人生…小5の時に父が「保証倒れ」で億単位の借金

まだ裕福だった幼少のころ。母・スエ子さんに抱かれる長与。右はいとこを抱く父・繁さん(本人提供)

【長与千種・レジェンドの告白(1)】女子プロレス界最大のカリスマ・長与千種(56)は2020年8月にデビュー40周年を迎えた。新型コロナウイルス感染拡大の年にありながら〝鬼嫁〟北斗晶(53)らと女子プロレス新組織「アッセンブル」を旗揚げ。来年には一夜限りの「ガイアイズム」(4月29日大田区総合体育館)を控え、常に進歩を続ける。1980年代に「クラッシュギャルズ」として日本全国を熱狂的な女子プロブームに巻き込んだカリスマはどんな道を歩み、40年目以降、どこへ進むのか。波乱万丈の56年間の人生を明かします。

明るく裕福な家に生まれた。長崎・大村市は漁が盛んな町で、長与家は祖父の代から漁業を営んでいた。父(長與繁さん。2012年7月逝去。享年78。日本初のボートレーサーの一人。登録番号56)は小2までしか行っておらず、船に乗りながら独学で勉強していたらしい。底引き網が主で、若い頃は遠洋漁業にも出ていた。大正生まれで戦前は軍隊にも入り、とにかく曲がったことが嫌いで、厳格な人だった。

大村は日本で初めてボートレースが始まった土地でもある(1952年7月)。父は船仲間と一緒に「腕を試してみるか」みたいなノリでボートレーサーになったらしい。登録番号2桁の第1期生。最近、当時のパンフレットを見つけた。父の成績とか載っていて。全部右から左の横文字なんで驚いたことを覚えている。

レースで財をなしたのか、昭和30年代には飲み屋さんや喫茶店など7軒の飲食店を経営するようになっていた。家は4階建てで、父のお店で働いているキレイなお姉さんたちがいつも集まっていた。私は7歳上の姉と7歳下の弟がいるんだけど、10歳になるまではいつも10人以上で暮らしていたと思う。常に人が出入りしているにぎやかな家だった。あの時のきらびやかさというか、艶っぽさっていう感覚は今でも忘れられない。

当時は軍艦島(長崎・端島)の炭鉱が盛んな時期で、そこから来たお姉さんたちも父の店で働いていた。父は「俺のところに来た以上、ちゃんとした人間として社会に出してやる」と、礼儀作法を厳しくしていた。だから家族だけでの食事の思い出なんてない。休日とかは40~50人でカニとか焼き肉とか食べに行っちゃうんだから、豪放そのものだった。

私はケンカ坊主で毎日ケンカばかり。父からは「負けて家に帰ってくるな。学校には道具を持っていかないでいい」と言われ続けていた。「勉強するより友達をつくれ」とも言われた。その代わり家の黒板で、高学年の算数を教えてくれた。自分の境遇もそうだったのだろうか。小2には九九よりはるか先、掛け算割り算まで覚えるようになっていた。

母(スエ子さん=80)は父の経営する飲み屋で妹が働いていて、それで知り合ったらしい。母の実家も漁師なので気は強かった。でも常に一歩下がって父をサポートしていた。7軒の店を実際に仕切っていたのは母で「ママ」と呼ばれていた。女の子たちをとてもうまくまとめていた記憶がある。

でも幸せな日々は長く続かなかった。小5の時、友人の借金の保証人になっていた父が「保証倒れ」で、億単位の借金を背負ったのだ。4階建ての家を出て小さな借家に引っ越しても、10歳の私に家の現状が分かるわけがない。一家は離散。私は4年間で親戚の家を実に5軒、たらい回しにされることになる。

地獄の日々が始まった。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し94年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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