【追う!マイ・カナガワ】富士山はもう見えないのか(下)その悲しみ、よく分かる

大さん橋の先端まで行くと、ビルの谷間に富士山が見えた(平松 晃一写す)

 「実はまだ見える場所があるんです。見えればいいとなってしまったことが残念ですが」

 富士山の写真を大さん橋から撮り続けている桐田敏彦さんが、ターミナルの先端まで案内してくれた。「確かに見える…」。ビルとビルの間からわずかに富士山の頂上を拝めた。看板などはなく、知る人ぞ知るスポットなのか。

 でも、かつてのように裾野までは確認できず、市庁舎そばには別の超高層マンションが建つ計画も進んでいるという。昔の眺望を知る取材班にとって何か物寂しさが残った。

◆「極楽は西」仏教の教え

 そもそも富士山の眺望に、どんな経済的価値があるのだろう。横浜市内の不動産会社役員は「結論から言えば、実はあまり価値は上がらない」と明かす。

 天候で景観が左右され、周辺の開発で風景が変わることなどが原因という。横浜から見える富士山はすべて西側に位置するため、西日を嫌がる人に「富士山が見えると宣伝することで、少しプラスの材料になる程度」という。

 一方、横浜から見える富士山の文化的価値について、山梨県立富士山世界遺産センターの学芸員・堀内眞さん(68)はこう語る。

 「関東人にとって富士山は西に見え、『極楽は西にある』という仏教の西方浄土思想につながる。視覚的な美しさだけでなく、精神的なものとして富士山と向き合い、じっくり見ている人はいるはずです」。そういえば、桐田さんも「富士山を大さん橋からぼーっと見るだけで癒やされる」と話していた。

 国土交通省が2006年に作成した「関東の富士見百景」に横浜港大さん橋国際客船ターミナルは選ばれている。国交省は「リストの中には都市開発で失われてしまった風景もあるかもしれないが、かつて見えていたという地域の記憶も、この百景に刻むことに意味がある」と説明する。

◆海外でも日本の象徴

 横浜と富士山の“原風景”は、本紙アーカイブ室に残る終戦後の米兵相手の土産物写真用のネガにも刻まれていた。

 焼け野原に、当時進駐軍に接収されていた横浜市開港記念会館(同市中区)がたたずむ。その奥で、真っ白に雪化粧した富士山が横浜の街を見つめている。だが、服装から撮影時は夏か秋とみられ、富士山は描き加えられた可能性が高い。

 富士山の写真史に詳しいキュレーターの小原真史さん(42)によると、横浜は富士山の写真とゆかりが深い。開港当初から外国人が富士山を背景に記念写真を撮る『横浜写真』が流行し、海外でも日本の象徴に富士がイメージ付けられたという。

 一方、「霊峰」とあがめられることもある富士山は、戦時中には戦意高揚のプロパガンダに利用された。「日本人の精神論と富士山は結びつきやすい。良い意味でも悪い意味でも富士山は日本の象徴なんです」。米軍も富士山の航空写真を撮影し、日本の制空権を獲得したという本国へのアピールにも使われたという。

 富士山が写る写真は連合国側の「勝利」を意味する。「土産とはいえ、勝った成果を見せるためのもの。当時の日本人は生き残るためにそうした写真も撮影していた可能性はある」と小原さん。富士山を描き込む心中は複雑だったろう。

◆名横綱の面々 出世のしこ名

 とはいえ、終戦後の富士山は、遮るもののない横浜の街中からよく見え、多くの人を励ましたはずだ。

 戦後、国民の代表的な娯楽であった相撲界でも、名力士のしこ名に「富士」が多く使われるようになる。相撲博物館(東京都墨田区)の学芸員は「統計はないが、戦後になって、北の富士や千代の富士をはじめ、『富士』が好んで付けられてきた」と話す。

 横浜から富士山がよく見えていた1988年~91年に優勝4回と活躍した元横綱旭富士の伊勢ケ濱親方(60)に話を聞いた。

 「富士山は日本一高い山。力士に富士を付けると、昔から出世すると言われていて縁起がいいからね」。横綱になったモンゴル出身の元日馬富士ら、多くの弟子にも「富士」を名乗らせてきた。その一人で、南足柄市出身の桜富士さん(22)=三段目=は「地元の人が自慢にできるような富士山のような雄大な力士になれるように頑張りたい」と、2021年の抱負を語ってくれた。

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 大さん橋から富士山が見えなくなったという女性の声を追った取材班。多くの人を癒やし、励ましてきた崇高な山が見えなくなる悲しみは、とてもよく分かる気がした。

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