【バドミントン】エース・奥原希望の信念「五輪を勝って辞めるのは美じゃない。ただの自己満」

奥原は「東京五輪がゴールではない」と言い切った(ロイター)

この情熱が〝五輪の女神〟に届くか――。日本バドミントン界の女子エース奥原希望(25=太陽HD)が本紙の新春インタビューに応じた。2年前、自ら「前例のない挑戦」と言い放ち、過酷なプロの道を選択。ひたすら金メダル獲得だけを目指してきたが、2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京五輪が1年延期となる激動の年となった。それでも現実を受け止め、前へ突き進む彼女の信念と理想に迫った。

――激動の2020年を振り返って

奥原:コロナがあって良かったとは思いませんが、私はこの一年をネガティブには捉えていません。逆にこういう時間ができたからこそ、技術面も含めてよりステップアップできた。それがシンプルな私の思いです。

――常に前向きな自分の性格をひと言で

奥原:100か、ゼロか。やるか、やられるかって感じですね(笑い)。たとえ不安があっても、直感というか、自分が信じた道を突き進む。とにかく徹底することですね。

――失敗して後悔は

奥原:しません!(即答)。たまに迷ったりしますが、どんな選択をしても失敗とか間違いってないと思う。その後の行動次第で自分の選択を「正解」に持っていける。だから、無駄なことって一切ないんです。

――そのブレない心はいつ備わったのか

奥原:それがよく分からなくて…。高校の先生には「奥原は普通の人じゃない」って言われてましたが、私の中で目標に向かって全力でやるのは普通。目の前の練習で何もこだわらず、時間だけ過ぎていくなんて私はあり得ない。この一瞬をどう意味ある時間にするか。その積み重ねで人生は成り立っている。ただ、やっと最近、私って普通じゃないって気付き始めました(笑い)。

――教師でバドミントン指導者だった厳格な父・圭永さんの存在は

奥原:それも大きな影響だと思います。父は根性論。とにかく練習が厳しく、小学生のころは本当に嫌でした。練習に行っても、家に帰っても父がいる。逃げ場がないから、やるしかない。どうせやるならプラスに変えよう、有意義に過ごそうって考えるようになったのが大きいですね。

――19年1月に独立してプロになった

奥原:実業団の試合に出る縛りがなくなり、ケガのリスクを回避できたのはプラスです。今はホントに充実した練習ができていて他の選手と客観的に比べても私の方が余裕あると思いますね。プロ化を決めたのは目標達成のため。私の中で人生の目標と達成の時期はもう決まっている。時系列がボンヤリすると、絶対にゴールできないので。

――そのゴールは東京五輪ですよね

奥原:うーん、最終目標ではないです。人生はもっと長いので。ただ、バドミントン人生でいえば、東京五輪が最大の目標ですね。人生の中のステップの一つ。これ以上の夢の舞台ってないと思うので。ただ、そのゴールへの道がホントに狭いことを知っちゃった。ゴールテープを切るために、すべてを準備しているのは私だけじゃない。簡単ではないと思います。

――東京五輪は集大成なのか

奥原:いえ、全然そんなことはないですよ。バドミントンを辞めるつもりはないです。私の美学として、勝って辞めるっていうのは美じゃない。それはただの自己満だと思いますね。

――ナンバーワンとオンリーワン。どっちを目指したいか

奥原:どちらもですね。例えば芸人さんの世界なら、いろいろなオンリーワンがいていいと思いますが、やっぱりスポーツ選手はナンバーワンを目指さなきゃいけない。そのナンバーワンの中でも、私はオンリーワンでありたいです。

――もう一つのゴール、結婚の願望は

奥原:ありますよ。私の人生目標では28歳で結婚の予定。理由はよく分からないですけど、なんとなく(笑い)。

――恋愛はバドミントンの邪魔にならないか

奥原:いえ、そんなふうには考えていません。一つのことしかできない人って不器用だなと思いますね。邪魔するから(恋愛を)やめるっていうのは、ある意味で逃げ道をなくしているのかもしれませんが、その人を言い訳にして切り捨てるのってナンセンスかなって思いますね。

――今、お相手は…

奥原:今はいないです!

☆おくはら・のぞみ=1995年3月13日生まれ。長野・大町市出身。小学2年で、バドミントン指導者の父・圭永さんの影響で競技生活スタート。2011年全日本総合選手権女子シングルスで16歳8か月の史上最年少優勝を果たした。16年リオデジャネイロ五輪で銅メダル、17年世界選手権で優勝。19年1月に日本ユニシスから独立してプロに転向した。同12月の全日本総合で4年ぶり3度目のV。3人きょうだい(兄、姉)の末っ子。身長156センチ。

© 株式会社東京スポーツ新聞社