『ホテル・ムンバイ』2008年11月に起きた無差別テロに立ち向かった人々のプロ意識

2008年11月26日夜から11月29日朝にかけて発生したムンバイ同時多発テロ事件(インドのムンバイの鉄道やホテルなど複数の場所がイスラム過激派?による襲撃を受けて多数の死傷者を出した)。
本作は、そのテロの現場と一つとなった、五つ星ホテルのホテル、タージマハールホテルで人質となった宿泊客と、彼らを守るために命を賭けたホテルスタッフたちのプロフェッショナルな姿を描いている。
主演は同じムンバイを舞台にした名作「スラムドック$ミリオネア」のデヴ・パテル。

[映画『ホテル・ムンバイ』公式サイト]

[タージマハールホテル]

プロ意識とは何かを示す作品

本作は、実際に起きたテロ事件で、最上のバケーションを楽しむはずだった人々が一転して最悪の数日間を味わうことになる不幸を描いている。
そして、その不幸に見舞われた人々を、何としても護り抜こうと努力する、高い職業意識(プロ意識、と言った方がいい)を持った人々の姿をリアルに表現してくれている。

無慈悲な悪意と暴力に巻き込まれたホテルという設定だと、同じ実話ベースの映画 「ホテル・ルワンダ」(1994年、ルワンダで勃発したルワンダ虐殺によりフツ族過激派が同族の穏健派やツチ族を120万人以上虐殺するという状況の中、1200名以上の難民を自分が働いていたホテルに匿ったホテルマン、ポール・ルセサバギナの実話を基にした物語) が思い起こされるが、どちらかというと同作が人種問題と人間愛にフォーカスが当てられているのに対して、本作は むしろ五つ星のホテルで働く者たちや警察官らの プロとしてのプライド(自尊心、ではなく、 誇り )に焦点を当てているように思う。

本作の中では、自動小銃や手榴弾で武装したテロリストたちに対抗できるのは、高い訓練や武力を持つ特殊部隊だけだと分かっているのに、その到着を待てずに人質救出に向かう(拳銃しか持たない)少人数の警察官らや、丸腰であり そもそも自分たちも人質となっているはずのホテルスタッフが、自分たちの命の危険を顧みずに宿泊客を守ろうとする姿が描かれているが、そこに共通するのは、自分たちの職務に忠実であろうとする高いプロ根性である。

現在世界的に蔓延している新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックに対して、あくまでも利他的な努力を続けてくれている医療従事者たちに通じる、気高い職業意識がこの映画のメインテーマであり、金や生活のためだけではなく、自分たちの仕事に誇りを持って生きているプロたちへの 手放しの賞賛と感謝が、本作の製作者たちやキャストたちが表現したいと願ったところなのだろうと僕は思った。

(もちろん家族愛なども描かれているが、職業倫理に殉じようとする人々の信条は、他の動物には絶対にあり得ない、人間にしかないもので、より貴いと僕は感じたのだ)

人間には正しい教育が大事だと再認識

本作で描かれるテロリストたちの多くは貧しい生活の中で暮らすイスラム教徒の少年達だ。
彼らは、自分たちの貧困の原因を作ったのは異教徒の強欲のせいだと教えられ、その復讐のために命を捨てれば(決死のテロを行えば)天国=楽園にいけると教えられる。また、自爆テロに似たその行為の代償として、死後の楽園に行けるだけでなく、残された家族に幾ばくかの金銭を渡してもらえるという約束を信じて、テロに向かう。
実際に起きたテロ事件の首謀者であり、テロリスト達に決起を強いた教唆犯はいまだ捕まっていないらしいが、本作においてもテロに赴いた少年達は残虐な殺傷行為に及ぶものの、結局は使い走りに過ぎない。

テロというとイコール イスラム過激派という図式が成り立ちやすい現代だが、キリスト教でも仏教でも (宗教だけではなく)純化された排他的思想(自分たちと同じ考えでない者は異端であり敵視してしまう意識)によって、歪んだ正義や悪意なき邪気を生んでしまうことはよくあることで、物事は多面的に見ようと考える“科学的アプローチ”がいかに大切かと思わされることがとにかく多い。

本作において、テロの舞台となったタージマハール・ホテルのスタッフらが、多くの宿泊客を救おうと努力するわけだが、その中心となるメインレストランのシェフ オベロイ料理長(この人は、実在する人で、映画中の架空のキャラクターではないとのこと。もちろん演じているのは役者だ)が、平時から 他のスタッフたちにプロのホテルマンとしての心得を教える様が描かれており(例えば手指を清潔に保つことや、綺麗な靴を履かせるなど)、人間の尊厳や人類愛といった壮大な意識ではなく、一流ホテルに勤めることの悦びと誇りを“しつけ”ようとしていることがわかる。

もちろんホテルの従業員たちの中には、宿泊客を守ることより、とにかく生き延びて家族と再会することを優先したい者もいる。オベロイ料理長はそんな者の気持ちを、プロではないと非難することもなく、それを当たり前のものと認めたうえで、職業的責務と秤にかけることを許す。何を1番大事に思うかは、人それぞれであるからだ。
(テロリストの少年たちが、選択肢を取り上げられて、自死を伴うテロに追い込まれていくさまと比べてみると、その違いがよくわかる)

主人公のアルジュン(デヴ・パテル)は敬虔な シーク教徒 で、その証として常にターバンを頭に巻いているが(シーク教徒といえばこのターバンと髭だろう)、イスラム過激派のテロリストへの恐怖のあまり そのターバンにも不安を感じてしまう宿泊客に、自分の信仰の在り方を理解してほしいと願いながらも、どうしてもターバンがその客を慄かせてしまうのであれば ターバンをとると告げる。お客様を不快にさせないために、信仰を曲げてでもホテルマンとして正しく生きることを選ぶのである。

この姿勢が正しいかどうか(信仰上許されることなのかどうか)は、僕にはわからないが、実のところ どんな姿勢を選択するかは問題ではないと思う。実際 本作では、ターバンに不安を覚えたその客も、アルジュンの真摯な態度に感謝し、自分のために信条を曲げてくれようとしたアルジュンの厚意を理解するし、自分がシーク教とイスラム教の違いを理解できていないという無知を知ることで、ターバンはそのままにすることに同意する。

これはとても良い演出と思った。
アルジュンが黙ってターバンを取ったとしたら、それはそれでホテルマンがお客様の気分を優先したという表現になるが、それでは自分たちの大切なものを他者に理解してもらおうという努力を最初から放棄することになる。アルジュンは、結果として、タージマハール・ホテルで働いている一流のホテルマンとしての(オベロイ料理長からの薫陶通りの)生き方を優先しようとしたわけだが、その前にきちんと自分が大切にしていることを相手にも理解を求める努力をする。その努力をせずにただターバンを外していたら、相手からの感謝は得られたかもしれないが、ちゃんと説明したことで、アルジュンは同時に相手からの尊敬も得られたと思うのである。

自分たちにとっては大事なことでも他人にはそうではないこと、もしくはその逆が存在すること、そしてその矛盾に直面したときに自
分たちがどんな選択をするかは、その人次第。ただ、どんな場合でも選択肢があり、最善と思える決断を下す努力ができるようになるには、やはり高度かつ高潔な教育が施されている必要があると考えるのである。

小川 浩 | hiro ogawa
株式会社リボルバー ファウンダー兼CEO。
マレーシア、シンガポール、香港など東南アジアを舞台に起業後、一貫して先進的なインターネットビジネスの開発を手がけ、現在に至る。

ヴィジョナリー として『アップルとグーグル』『Web2.0Book』『仕事で使える!Facebook超入門』『ソーシャルメディアマーケティング』『ソーシャルメディア維新』(オガワカズヒロ共著)など20冊を超える著書あり。

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