井口の二塁起用は「指導者人生を賭けた」 ロッテで“まな弟子”支える名伯楽の思い

ロッテ・井口資仁監督【写真:荒川祐史】

かつてホークスの主軸をともに担った小久保氏との対戦にも注目

今季就任4年目を迎えるロッテ・井口資仁監督。その指揮官とかつてホークスの主軸を担った前侍ジャパン監督の小久保裕紀氏が、古巣ソフトバンクのヘッドコーチに就任した。両者の対戦は、今季の楽しみのひとつでもある。

そこで、南海・ダイエー・ソフトバンク時代を通じてホークスに選手として10年、指導者として13年在籍し、現役時代の2人指導した森脇浩司氏に、それぞれの素顔を語ってもらった。後編は、井口監督の現役時代の分岐点。今季からロッテの1軍野手総合兼内野守備走塁コーチとして“まな弟子”を支える森脇氏ならではのエピソードとは――。

同じ青学大出身で、3歳上の小久保ヘッドは1993年、井口監督は1996年のドラフトで、いずれも逆指名でダイエー(現ソフトバンク)に入団した。「2人の共通点はいろいろありますが、プロ入り当初からリーダーの資質を垣間見せていたことがその1つ」と森脇氏。「自信家でありながら、向上心に満ちあふれ、常に謙虚。そして、若い時から自己主張ができる2人でした。話がうまいとかではなく、人前で発言する姿勢、相手の話を聞く姿勢に感心しました」と説明する。

鳴り物入りでプロ入りした井口監督。大学通算24本塁打の実績、甘いマスクでデビュー前から人気は絶大だった。しかし4年目の2000年、野球人生の岐路を迎える。左肩を痛めて手術を余儀なくされ、この年のオフ、高知市営球場で行われた秋季キャンプで、遊撃手から二塁手へコンバートされることになった。このプロジェクトを推進したのが、1軍内野守備走塁コーチに就任した森脇氏だった。

ショートは内野の花形。高校時代から名遊撃手として鳴らしてきた井口監督にとって、口には出さなかったものの、このコンバートには内心受け入れがたいものがあったはずだ。森脇氏も「僕自身、このコンバートには指導者人生を賭けました」と腹を据えていた。

今季からロッテの1軍野手総合兼内野守備コーチを務める森脇浩司氏【写真:荒川祐史】

二塁コンバートに成算「井口の個性が最大限に生かされる」

「井口の個性が最大限に生かされるのはセカンド」という成算があった。その裏には、当時の時代の流れも反映されていた。「各球団の本拠地球場が概ね両翼92メートル程度から100メートルへとサイズアップし、特にホームランテラス設置前の福岡ドームは広かった。パ・リーグでは各チームが左の強打者を3~4人スタメンに組み込む編成に動き、右中間を抜く当たりが増えつつあった」と言う。さらに、森脇氏は「ホークスを常勝球団にするには、カットマンとして深い位置から三塁、本塁へ的確に送球できて、広い守備を持ち、さらにゲッツーを高いレベルで取り切る能力を持った二塁手が不可欠だと考えていました」と意図を説明した。

井口監督自身にも、コンバートの効用はあった。「当時の彼のボディバランスは左に偏っていました。右打ちの打撃で、投手方向へ突っ込んでしまう課題があったのも、そのためでした」と森脇氏。「しかし二塁手は、一、二塁間のゴロを捕球し反転して二塁へ送球するプレーや、5-4-3、6-4-3の併殺プレーを、左バランスのままではこなせない。自ずとボディバランスが修正され、格段に攻守のレベルが上がる」と見ていた。

反復練習は凄まじかった。「向上心、好奇心が強く、チャレンジ精神旺盛で、その資質と日々の努力で困難なコンバートを乗り越え、自ら成功をつかみました」と森脇氏は称える。

井口監督はコンバート初年度の2001年、プロ生活を通じて最多の30本塁打、44盗塁をマークし、盗塁王のタイトルを獲得。二塁手としてもベストナインとゴールデングラブ賞に輝き、見事に結果を出した。2005年にはメジャーへ移籍し、ホワイトソックスのレギュラー二塁手としてワールドチャンピオンの座に登り詰めた。

その井口監督が、自身のターニングポイントに関わり、いまや還暦を迎えた森脇氏を改めてコーチとして招聘したことは意味深い。森脇氏は「当時の一日一日の歩みは、私にとっても大きな財産です。彼の変化が私のエネルギーだった。向上心に満ちた“井口選手”から頂いたご恩をしっかりとお返しした一念です」とうなずく。いかにして古巣ホークスに挑むだろうか。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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