【ID野球の原点】起用急ぐファンと対立 脅迫されても岡田を大切に育てようとしたブレイザー

1979年暮れ、阪神に入団した直後の岡田(右)。左は「ミスター・タイガース」こと掛布雅之

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(15)】野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)

「オカダが監督になったのか。それはよかった」。2003年のオフ、阪神監督に岡田彰布が就任したことを知らせると、ブレイザーは我がことのように喜んだ。そして遠い目をしながら懐かしそうに当時を振り返った。ブレイザーと岡田、今にして思えば悲しい巡り合わせだったと思う。

ブレイザーが阪神監督に就任し、1年目のシーズンを終えた直後のドラフトで阪神が1位指名したのが早大の主将・岡田だった。六大学史上4人目の3冠王に輝いた大スター。ファンは岡田に大きな期待を寄せた。それはもちろんブレイザーとて同じこと。だが、ブレイザーは将来有望な新人だからこそ、岡田を大事に育てようとした。しかし、熱狂的なファンは今すぐにでも岡田を試合に使ってほしかった。

アリゾナ・テンピで行われた春季キャンプ、ブレイザーは岡田に一塁と右翼の練習を命じた。「ポジションは与えられるものではなく勝ち取るものだ」。当時の阪神の内野陣には掛布、真弓らがいて、二塁にはヤクルトで3割の実績を残しているデーブ・ヒルトンがいた。コーチ会議でも「一塁と右翼で経験を積ませながらタイミングを計って二塁で起用しよう」という育成方針が確認された。だがオープン戦、開幕と時がたつにつれ「ブレイザーはどうして岡田を使わないのか」というファンの声は日増しに強くなっていった。

そのうちヒルトンが打席に立つたび「オカダ、オカダ」の岡田コールがわき上がるようになった。あれには岡田もまた、つらかったことだろう。

そして4月の東京遠征であの事件が起きた。神宮球場でのヤクルト戦、一死三塁のケースでヒルトンが犠牲フライを打てずに負けた試合だ。試合はヒルトンの奥さんが古巣ヤクルトとの試合ということもあり観戦に来ていたが、試合後ヒルトンと身重の奥さんが乗り込んだタクシーをファンが取り囲んだ。そして、タクシーがへこむほどボコボコに蹴られたのだ。

さらにはブレイザーの自宅にカミソリ入りの手紙が届くようになった。ブレイザーとその家族は長い日本での暮らしの中、日本への感謝の気持ちは片時も忘れることはなかったが、この事件が一番つらい出来事となってしまった。やがてヒルトンは解雇され、ブレイザーも5月中旬に阪神を退団。その後、出場機会の増えた岡田はファンの望み通りの活躍で、新人王に輝くことになる。

ブレイザーは05年4月13日、73歳で旅立った。一方の岡田は05年のペナントを制すなど、監督として実績を残している。「指導者として、オカダがあの時の体験を生かしてくれれば幸いだ」。そう述懐していたブレイザーに、岡田の指導者ぶりを見せてあげたかったと思っている。=敬称略=

☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

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