【藤田太陽「ライジング・サン」(3)】僕は実は野球少年ではありませんでした。投げるスポーツは投げるスポーツでもボールは投げません。人間を投げます。実は小学1年生から4年生までは柔道とレスリングをやっていたんです。
「オリンピックの柔道で金メダル」。それが小さいころの一番の夢でした。山下泰裕さん(ロス五輪金メダリスト)に憧れてね。自分で言うのも何ですが、まあまあ強かったんですよ。それなりに。
でも4年生の時、父に「野球をやれ」と言われた。でも、僕としては「何で?」という感覚でした。柔道が大好きなのに。それでも「いいから一回、野球の練習に行ってこい。それで、楽しかったらグラブもバットも全部買ってやるから」と言われたんです。
それでも興味ないなあ…と思いながら、仕方なしに行ったんです。でも、まあまあ楽しかったんです。ボールなんてそんなに投げたこともなかったのに、その中にいた誰よりも速い球が投げられたし、遠くに打てるし、何だかちょっとやってみようかなという気持ちになってしまいました。
そのチームが飯島小学校少年団という野球チームです。田舎のチームとはいえ、その当時のメンバーはすごくいい選手が揃っていました。僕は4年生で入団して、そこから5、6年とプレーしたんですが、ほぼ負けなしのチームでした。
僕のポジションはその当時はセンターだったんです。高校3年生で投手デビューと言ったように、ピッチャーではなかったんです。ただ、肩には自信がありました。今思えば肩に関しては異常だったと思います。かなりの数の「センターゴロ」という珍プレーを完成させましたね。小学生の野球なので結構、前を守っているとはいえ、なかなか起きないプレーですよね。
投手には絶対的なエースがいました。それも当時の監督の息子です。ただ、息子だからというわけではなくて、本当にいい投手でした。コントロールもいいし、こいつにはかなわないなと思っていました。
自分はといえばコントロール悪かったですよ。センターからホームに投げたらバックネットにバンッと当たったりね。小学時代はそんな感じです。体も大きかっただろうと言われるんですが、そんなことなくて平均くらいでした。当時の写真を見てもわかりますよ。周りの子たちの方が大きいですから。
至って普通の子供でした。でも、肩だけはとんでもなく強かったと思っています。
あと、父からの金言ですが、柔道ではなく野球を勧められた時に言われた言葉があります。
「太陽、柔道じゃメシは食えないぞ」
小学4年生で響くかなという言葉ではあるんですが、当時の僕には響いたんです。そうなんだ。柔道では食えないんだ。野球なのかって強く感じた思い出がありますね。
☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。