「アテンション・プリーズ」から始まった能瀬慶子の軌跡【歌唱力は個性】 1979年 1月5日 能瀬慶子のデビューシングル「アテンション・プリーズ」がリリースされた日

映画にも出演、歌手デビューする能瀬慶子は担任の姪っ子

自分が中学2年だった1978年の冬の初め。ホームルームの折に担任のT先生がニコニコしながら話し始めた。「今度、ぼくの姪っ子が歌手デビューすることになったんだ。みんな応援してくれ」黒板に書きだされたその名前は “能瀬慶子”。

まもなく公開される山口百恵と三浦友和の映画にも出るという。やがて年が明けてすぐ、レコードが発売された。「アテンション・プリーズ」というタイトルだった。応援するつもりでしっかりレコードを買い求めたのは我ながら偉かったと思う。

先行して女優デビュー、山口百恵主演映画「炎の舞」で妹役

1978年に行われた第3回『ホリプロ タレントスカウトキャラバン』で38,700人の応募を勝ち抜いて優勝した能瀬慶子は、その時15歳の高校1年生。同年12月に公開された東宝映画『炎の舞』でまずは女優デビューが先行する。事務所の先輩である山口百恵の主演作に、その妹役で出演するという恵まれたスタートであった。

そして年を跨いで1979年1月5日にキャニオン(現・ポニーキャニオン)のNAVレーベルから、「アテンション・プリーズ」で歌手としても無事離陸した。芸能界という大空に羽ばたく少女の応援歌のようにも聴こえた。

喜多條忠×浜田省吾によるデビューシングル「アテンション・プリーズ」

作詞はかぐや姫「神田川」の喜多條忠、作曲は当時ホリプロに所属していた浜田省吾。1975年に “愛奴” のメンバーとしてプロデビューし、翌年にはソロデビューもしていたもののまだ大きなヒットには恵まれていなかった頃。この年の夏に「風を感じて」が初ヒットへと至る。

能瀬へ提供したのは「アテンション・プリーズ」とカップリングの「フラワー・バス・ステーション」、続けて次のシングルのAB面「裸足でヤングラブ」と「星空の天使達」も担当。6月に出されたファーストアルバム『ほほえみプレリュード』はこの4曲に加えて「ボンボヤージ」と、浜田の作品が11曲中5曲を占めていた。

キャニオンレコードのプロモーションLPは能瀬慶子&円広志推し!

当時のキャニオンレコードのプロモーションLP(店頭演奏用盤)には、“79年、新風をまきおこす、2人の大型新人!!” というコピーのもと、能瀬慶子の写真がジャケットの半分に大きく刷り出された。もう半分の写真は円広志で、1978年11月に出されたデビュー曲「夢想花」が強力プッシュされていたのが判る。ほかには松山千春「季節の中で」、石川ひとみ「くるみ割り人形」、金井夕子「ジャスト フィーリング」などを収録。

大ヒットした「夢想花」に対して「アテンション・プリーズ」の方は惜しくもヒットと呼べるほどには至らなかったものの、オリコンチャートで62位にチャートインした。タレントスカウトキャラバン優勝者の話題性だけでなく、喜多條×浜田コンビによる楽曲の魅力と、キラキラしたアレンジを施した船山基紀の功績も大きい。

わずか1年で4枚のシングルと1枚のアルバムをリリース

1979年4月リリースのセカンドシングル「裸足でヤング ラブ」は、浜田が作詞もともに手がけた明朗ポップス路線の延長で、改めて聴いてみてもデビュー曲に劣らぬ良曲である。キャニオンのプロモLPでは再びジャケ写にピックアップされる破格の扱いで、「シャンペンNo.5」でデビューする川島なお美と一緒に。“走っておいで、レモンのような2人、春の足音にのって” のコピーが躍っていた。

その後アルバムを間に挟んで、7月に「He Is コットン100%」、9月に「美少女時代」(ともに三浦徳子作詞、大村雅朗作・編曲)と、わずか1年の内に4枚のシングルと1枚のアルバムがリリースされたが、歌手活動はそこまででストップしてしまう。

“赤いシリーズ” で立派に果たしたヒロインの役目

1983年に20歳で引退という短い芸能活動の中で、最も強く人々の記憶に残っているのは歌手よりも女優としての顔、TBSで放映されたドラマ『赤い嵐』かもしれない。突飛な設定と展開でただでさえ視聴者を翻弄する大映ドラマにおいて彼女に与えられたのは記憶喪失の少女・しのぶ(ただし仮の名)の役で、パンチの効いた台詞を連発。相手役の柴田恭兵の個性的な演技とも相まって話題をさらった。

柴田の呼びかけ「しのぶちゃん!」と、能瀬が怯えた表情で放つ「ここはどこ、私は誰?」の台詞は当時モノマネの定番となったほど。ドラマ後半では20%前後の視聴率をキープして、それまで先輩・山口百恵が担ってきた “赤いシリーズ” のヒロインの役目を立派に果たしたと言っていい。

もう一度「アテンション・プリーズ」を歌う能勢慶子が見たい

何かと揶揄されることが多い歌唱力はむしろ個性として好意的に受け止めたい。ただ上手いだけで情緒がない歌手よりはずっと魅力的なのではないか。一所懸命な感じがとてもよかった。早々に歌手を辞めてしまったのは芸能界の水が合っていなかったのだろう。

その後、幸せな結婚をして3児の母になったと聞く。女子校の教師をしていたという話もあって、もしかすると叔父のT先生の導きだったのかも。お祭りが好きで、アイドル時代には神輿を担いでいる姿を披露していたこともあったから、地元の湯島天神で和太鼓の伝統を継承したという噂はきっと本当に違いない。

いつか気が向いたら、もう一度だけでも「アテンション・プリーズ」を歌う姿を見せてはもらえないものだろうか。その横に温かく見守る浜田省吾がいたりしたらもう最高なのだが。

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カタリベ: 鈴木啓之

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