『湖の女たち』吉田修一著 諦念の先にあるもの

 本書はいわゆる犯罪小説に分類されるのだろうが、意外なことに「美しい」という言葉が繰り返し使われている。二つの湖を形容する言葉として。一つは現代の琵琶湖、もう一つは戦中の旧満州・ハルビンにある湖である。

 人間の欲望や憎悪といった負の感情と、湖畔の自然の風景が対比される。そして、その湖畔にたたずむ者たちは何を思うのか。作家は人間の罪深さや社会のひずみに対する諦念のその先を見つめる。その透徹した視線を感じる一作である。

 琵琶湖近くの介護療養施設「もみじ園」で、市島民男という100歳の男性が低酸素脳症で亡くなる。人工呼吸器の故障か、スタッフの過失による事故か、それとも故意の殺人か。

 事件を調べる若い刑事、濱中圭介と、もみじ園で働く介護士の豊田佳代が出会い、禁断の愛にのめり込む。佳代は全てを圭介に預け、自分を失っていく。圭介ら「西湖署」の面々は、松本郁子という一人の介護士に罪を被せる方向に走り始める。負の連鎖が止まらなくなってゆく。やがて、さらなる事件が起きる。

 一方、1990年代に起きた血液製剤の薬害事件を再調査していた雑誌記者の池田立哉が、このもみじ園の事件に興味を持つ。亡くなった市島が薬害事件の関係者とつながっていることに気付いたのだ。

 池田はやがて、薬害事件の人脈が、戦中に731部隊の拠点だったハルビンにさかのぼることを突き止める。その地には丹頂鶴が飛来する美しい湖があり、2人の子どもが死亡する事件が起きていた。

 二つの湖の近くで起きた事件。二つの湖を橋渡しする人物が、市島の妻、松江である。彼女は戦中のハルビンで、事件に関係するある秘密を抱えてしまったのだ。

 松江は池田にこう打ち明ける。「あの日以来、私は一度も美しいもんを見てないわ。あの日の丹頂鶴の群れが最後。(略)この長い人生で、たったの一度も、何かを美しいと感じることはなかった」

 佳代、郁子、松江…。何かを諦め、心に空洞を抱えた悲しい女たちを作家は丹念に描く。しかし、物語は諦念や絶望で終わらない。冬のハルビンの湖、そして終盤に登場する早朝の琵琶湖。両者の荘厳なまでの風景描写に圧倒される。

 その琵琶湖の場面では、「わたしとあなた」に向けた不思議な語りが入り込んでくる。例えばこんなふうに。「言葉はいらない。わたしやあなたはただ、岸辺にしゃがみ、寄せる波に触れてみればいい」

 語り手が誰なのかも明示されないが、おそらく作家本人による読者へのメッセージなのだろう。

 これは本当に犯罪小説なのだろうか。読み終えたとき、そんな疑問が浮かんだ。この風景描写を書くために、人間の罪が書かれたのではないかという気がしてきたのだ。

 吉田修一という作家がなぜ、繰り返し犯罪を書くのか、いまそれを考え始めている。

(新潮社 1600円+税)=田村文

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