大好きだったチャンプカーの悲しい終焉。唯一の生観戦が記憶に残る“ある理由”【サム・コリンズの忘れられない1戦】

 スーパーGTを戦うJAF-GT車両見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。

 今回は2003年にイギリス・ブランズハッチで開催されたCARTチャンプカーシリーズ第4戦ロンドン・チャンプカー・トロフィーの後編。レースがスタートすればさらに大興奮……かと思いきや、そうは行かなかったようです。

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 乗せてもらえることになったペースカーは特別仕様のフォード・マスタングの1台だった。外見からは標準仕様の市販車に見えるが、乗り込んでみると、完全なロールケージが取り付けられているのに気づいた。だがロールケージは全体が布張りされていて、標準車のインテリアのように見えた。

 レーシングシートも同じような方法で、黒のレザーが張られていた。それ以来、私はこのような市販車をビルドしてみたいとずっと思っている。だがマスタングではなく、何か面白い完全なレーシングキットで丁寧に布張りしたい。私のばかげたアイデアだ(笑)。

 ペースカーの周回はアメリカ出身の女性ドライバーが行なった。彼女はブランズハッチを走行するのは初めてで、一部のコーナーではレーシングラインを分かっていなかった。ペースカーに乗り込む時、マーシャルがクルマに寄りかかってドライバーにこう言った。

「この男に気をつけたほうがいいよ。彼は地元のレーサーのひとりなんだ。ステアリングホイールをちゃんと取り付けるようにね!」

 彼女は笑い、ピットからクルマを走らせて、彼はどういう意味で言ったのかと私に訪ねた。数週間前にブランズハッチでのシングルシーターレースに私が出場したときのアクシデントを説明した。レースのスタート時にステアリングホイールが取れてしまったこと。原因は適切に取り付けをしていなかったこと。非常に恥ずかしい思いをしたことを。

 ブランズハッチのピットレーンではその長さ全体に沿って一時的に壁が作られているのも興味深かった。アメリカのシリーズでは、壁を利用するスタイルが取られ、ピットストップの際に、メカニックが堅牢な壁にジャンプして登り、マシン作業を行うのだという。

 ヨーロッパや日本では、F1スタイルのピットガレージを使用しており、そのほうがはるかに安全だと思う。だがブランズハッチは、訪英したアメリカ人のためにピットレーンに壁を作ったのだ。BTCCのチームはこの壁をどうしたのか疑問に思ったが、分からなかった。

 コースを数周走るのは楽しかったが、このコースをシングルシーターでもっと速いスピードで走っていた私はそれほどのすごさは感じなかった。だが、チャンプカーの大ファンとしてペースカーに乗ることができたのは本当に特別なことだったと思っている。

 ペースカーセッションの後、私はホスピタリティボックスへ戻り、マネージャーにペースカー同乗とレースのスタートを見させてくれたことへの感謝を伝え、レースのスタートを観戦した。大きな花火が打ち上げられ、アナウンスがこだまする。

「紳士諸君、エンジン始動」

2003年CARTチャンプカーシリーズ第4戦 ロンドン・チャンプカー・トロフィー レーススタートの様子

︎開幕3連勝のトレーシーはトラブルでリタイア

 コース上にマシンが整列していく。私だけでなくそこにいたすべての人が、ポール・トレーシー(チーム・プレイヤーズ)が19台のマシンを従えてスタートラインにつく瞬間をワクワクしながら観ていた。しかし、何も起こらなかった。イエローフラッグが振られると、マシンはゆっくりとスタート/フィニッシュラインを過ぎていった。

 コース上では隊列が形成できておらず、レースオフィシャルがスタートのやり直しを決めたのだ。待ちわびていた瞬間が少々期待外れではあったが、もう一度コースを一周してきたマシンたちはあらためてグリッドにつき、レースがスタートされた。

 ブランズハッチのショートトラックを大型の速いマシンがフルスピードで周回していくのは、じつにスリリングな見ものだった。最初の数周は本当に楽しめた。10周が過ぎる頃、仕事仲間が私にこう言った。

「すごくクールだけど、誰かオーバーテイクする人はいないのか?」

 彼の疑問は正しかった。コース上では車列ができており、本物のバトルはまったく起きていなかったのだ。それでも観ていて気持ちがよかったが、徐々にこれが非常に退屈なレースになることが明らかになってきた。

 80周目までの間に何度かピットストップが行われた以外、特に関心を引くものがなかったのだ。その後、マレーシア出身ドライバーであるアレックス・ユーン(デイル・コイン・レーシング)が、ドルイド・ベント(ヘアピン)でクラッシュし、このレースで最初のコーションフラッグが出された。

 レースはすぐにリスタートされたが、コースを走行するマシンたちには、オーバーテイクをしようという試みがまったく見られず、またしても非常に退屈なレースになってきた。

 だが、レースが100周を超える頃、ポールポジションからスタートしたトレーシーのマシンは煙を上げてリヤエンドが完全に炎に包まれたまま、ホスピタリティボックスを通り過ぎた。トレーシーは残り10周を残したところでギヤボックストラブルによりリタイアを喫してしまった。

 優勝は、ニューマン・ハース・レーシングのセバスチャン・ボーデ、2位には彼のチームメイトのブルーノ・ジュンケイラが入り、ワン・ツー・フィニッシュを決めた。チームにとってはその年最初の優勝だった。

 後にジュンケイラはチャンピオンシップでタイトルを賭けて戦うが、この年の王者に輝いたのはトレーシーだった。トレーシーはブランズハッチでのレースで興味深いアプローチを取っていた。トラブルが起きるまで彼が大きなアドバンテージを持てていたのはそれが功を奏していたからだ。

ニューマン・ハース・レーシングのセバスチャン・ボーデとブルーノ・ジュンケイラがワン・ツー・フィニッシュ

︎素晴らしいレースになるはずだった残念な結末

 この時、輸送コストを削減するためブランズハッチでレースを行ったマシンは1週間後、ユーロスピードウェイ・ラウジッツに持ち込まれた。つまり、ブランズハッチと同じボディワークパッケージで、異なるコースを走らなければならない。

 そのことを考慮した上でセットアップしたマシンを持ち込むのがセオリーだが、トレーシーはユーロスピードウェイ(ドイツ)でのトップスピードを犠牲にしてでも、ブランズハッチ(イギリス)で高ダウンフォースを得られるセットアップを選択していたのだ。

 ギヤボックスのトラブルがなければ、それは優れた戦略だったが、最終的にトレーシーは代償を払うことになった。ブランズハッチではレースをフィニッシュできず、その後のユーロスピードウェイでも競争力を発揮できなかった。

 当時のチャンプカーはトヨタとホンダがインディカー出場のためにシリーズを撤退した後、レイナードとローラがマシンを供給し、すべてのマシンはフォード-コスワースエンジンが搭載されていた。チームはボディワークの開発と改良が可能だったので、技術的にも非常に興味深いものだったのだ。

 しかし、ブランズハッチでは多くのマシンが妥協したセットアップで走っていたために、彼らは良いレースができなかったのかもしれない。もしくはほとんどイエローフラッグが出なかったために、燃料を節約しながらのレースとなったことが災いしたのかもしれない。

 いずれにせよ、ロンドン・チャンプカー・トロフィーは良いレースとは言い難く、正直、がっかりした。私だけでなく、レースを観ていたほとんどの人が落胆していたと思う。もしBTCCがいつものような素晴らしいレースをしていなかったら、その晩は多くのファンが気分を害して帰っていたかもしれない。

 翌日、ロンドンの新聞大手はチャンプカー・レースについて非常に批判的だった。「楽しめるレースではない」「マシンはショートトラックには大き過ぎた」と酷評した。

 CARTチャンピオンシップ運営組織はその年の終わりに財政破綻したが、一部のチームオーナーによって救済された。翌年にはレイナード・レーシングカーズが破綻。その後チャンプカーは、すべてのチームが同一のローラを、その後は同一のパノスのシャシーを使用するワンメイクシリーズになった。

 チャンプカーは2007年末で終わりを迎え、すべてのチームはインディカーへ移行した。長年、テレビで観戦し、楽しんできたチャンピオンシップの悲しい終焉だ。ただひとつ、あの日ブランズハッチで実際に目にしたものだけは楽しめなかった。

 いまでは、インディカーがワンメイクのチャンピオンシップとなってしまったことが私は残念で仕方ない。異なるシャシーメーカーやエンジンマニュファクチャラーが参入すれば、はるかに面白くなると思うのだ。

 また、インディカーがヨーロッパだけでなく、日本でも復活してくれたらそれは素晴らしいことだ。だが、そのためには日本のトップフォーミュラカテゴリーであり全日本スーパーフォーミュラ選手権に見劣りしないようにマシンをさらに速くする必要があるだろう。

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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。

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