「指が13センチ開く」 鉄アレイやビール瓶で…元横浜大洋エースのフォーク誕生秘話

横浜大洋ホエールズで活躍した遠藤一彦氏【写真:本人提供】

指の間の“水かき”をカミソリで切除…耳にした元阪神「村山伝説」に衝撃

横浜DeNAベイスターズがかつて、「横浜大洋ホエールズ」と称していた時代を懐かしむファンは今も数多い。とりわけエースの座に君臨した遠藤一彦氏は、長身でモデルのようなスリムな体形に、当時のチームカラーの紺色が映えた。代名詞となったのが、フォークボール。大打者たちをきりきり舞いにさせてきた“宝刀”はいかにして生まれたのか――。

大洋ホエールズが川崎球場から横浜スタジアムに本拠地を移転し、「横浜大洋ホエールズ」に改称した1978年。ドラフト3位ルーキーとして東海大から入団したのが遠藤氏だった。チームが「横浜ベイスターズ」に名前を変えた93年に遠藤氏は現役を引退。プロ生活15年は「横浜大洋ホエールズ」の全歴史と重なった。

その15年間、チームは優勝なし。Bクラス12回と決して強くなかったが、エースの遠藤氏は通算134勝128敗58セーブと奮闘した。沢村賞に1度、最多勝に2度輝き、当時は連盟表彰のなかった奪三振部門でも3度リーグトップの数字を残した。最大の武器は、プロ2年目から投げ始めた落差の大きいフォークだった。

プロ1年目はストレートとカーブだけで挑み、1軍11試合登板で1勝0敗、防御率4.50。迎えた2年目、静岡・草薙での春季キャンプから本格的にフォークの習得に取り組んだ。その背景には、フォークを武器に通算222勝を挙げ「ミスタータイガース」の異名を取った元阪神・村山実氏の存在があった。

キャンプ中、阪神時代に村山氏とバッテリーを組んだ経験を持つベテラン捕手の辻恭彦氏と相部屋になった。「村山さんはこう投げていたぞ」と連日アドバイスを受けた。「村山さんはフォークを投げやすくするために、右手の人さし指と中指の間の“水かき”をカミソリで切除して広がるようにしたと聞いて、衝撃を受けました」と遠藤氏は振り返る。

遠藤氏が水かきを切ることはなかったが、その後、辻氏の紹介で村山氏から直接「ボールを挟む力をつけろ」と助言され、鉄アレイを人さし指と中指だけで挟み上げ下げするトレーニングを行った。遠征での移動の最中は、人さし指と中指の間にテニスの硬式ボールを挟み、グイグイと押し広げた。会食中には、ビールの中瓶を2本の指で持ち上げ、仲間のコップへ注いだことも。その結果、遠藤氏は「今も指の間は12~13センチは軽く開きますよ」と笑う。

“フォークの神様”杉下氏から指導も…指の長さは段違い

一方で、「辻さん、村山さんの話は非常に勉強になりましたが、村山さんと僕とでは体格も、投げ方も違う。村山さんはストレートがすごく速かったとも聞いています。結局、僕のフォークは僕独自のものだったと思います」と強調する。

実際、ひとくちにフォークといっても、投げる人間の特徴によって様々だ。遠藤氏は、「フォークボールの神様」こと元中日の杉下茂氏からも指導を受けたことがあるが、手を合わせてみると、指の長さが段違いで、遠藤氏の指先は杉下氏の第一関節あたりまでしか届かなかった。同じ感覚で投げることには無理があった。

遠藤氏は自身のフォークに年々改良を加え、最終的には「真っすぐ落ちる」「シュート気味に落ちる」「スライダー気味に落ちる」の3種類を投げ分けることができた。

「普通に投げれば、だいたいシュート回転するので、左打者には有効でしたが、右打者に対しては内角へ入っていく軌道になり、当てられることが多かった。そこでまず、どうやったらスライダー回転になるかを研究しました」と説明する。投げ方はどれもストレートと同じ感覚。簡単な言い方をするなら、指を縫い目に掛けずに投げれば真っすぐ落ち、中指を縫い目に掛ければスライダー回転、人さし指に掛ければシュート回転しながら落ちた。

辻氏や村山氏に刺激を受けながら、あくまで我流で無双のフォークを開発し、プロ人生を切り開いた遠藤氏。順調にエースとしての階段を駆け上がったようにも思えるが、その原点にはまさかのサイドスロー転向を余儀なくされたプロ1年目があった。

【写真】「指の間が13センチ開く」遠藤一彦氏がフォークの握りでボールを持つ実際の写真

「指の間が13センチ開く」遠藤一彦氏がフォークの握りでボールを持つ実際の写真【写真:宮脇広久】 signature

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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